2012年8月13日月曜日
2012年8月6日月曜日
フェンシング男子フルーレ団体が銀メダル
「オリンピックと陰謀論」という記事で日本柔道(特に男子)が勝てなくなったのは、監督・コーチの抗議の仕方に問題があるからだと書いた。
聞けば、やはり多くのマスコミが、今回の成績を踏まえて、こうなった原因として、指導方法と少子化とランキング制度に対応しきれていなかった選手強化策と予算不足とともに監督コーチの人選のことを問題にしていた。(ほとんど全部じゃないかという気がするが…)
なんか今回のオリンピックは暗いですな。みんな見ているはずなのに結果が伴わない銀だとか銅ばかりだというのが大きいだろう。特に銀メダルということは多くの場合「決勝で負けた結果」だったりするので、やたら銀メダルの多い今回のロンドンオリンピックではそれが影響しているのかもしれない。まあ自分からすれば、結果が銀だろうが銅だろうが、選手はがんばっているじゃないかという思いとともに、やはり選手個人、チームあるいは日本選手団に暗く落ちている「陰の部分」が、どうしても選手のそばにいる監督・コーチのせいのような気がしてならない。
しかし逆の例があった。
前にフェンシングのエペをネットで全試合(個人男子)見たと書いたところ、意外や意外食いつきがよかったみたい。
べ、別に隠していたわけではないが、自分は20代前半(21歳か22歳)まで、ちょいとばかしフェンシングのエペをたしなんでいた競技者あがりなのだ。
高校時代も2年までやっていた。但しフルーレである。
まあテレビでフェンシングの世界大会や五輪の試合など、この日本では見れたものではなかったのだが前回北京でフルーレ男子の太田雄貴選手が銀メダルをとるという快挙を受けて、地上波でフルーレの試合だけは男女とも見れたのは、なんか言葉は悪いが「もうけた」という感じだった。
女子のほうは全体的にイマイチだったが、最後の最後でフルーレの団体(男子)が思わぬ好成績で銀メダルを取れたことは実に喜ばしい。
自分が見ていたのは準々決勝の中国戦から決勝戦までの三試合のみだが、何に驚かされたかというと、日本人選手の技術、スピード、パワー、試合運びの上手さ、どれもが自分が知っていたころからすると格段に上がっていて、「別の一流国の選手か」と思ったくらいだった。
そしてそれ以上に改めて感じたのはどの競技であろうとそうだろうが、監督・コーチの大切さである。
現在のフェンシングのルールはちょっと変わってきていて、選手一試合一回だけ審判の判定に対して「抗議」が認められ、ビデオを使った再判定を申し出ることができる。
日本のコーチ(ウクライナ人)が、実にこの抗議を使うタイミングが上手というのか、すごかった(あくまでも結果論として)
特に準決勝のドイツ戦は日本チームのこのコーチの駆け引きで勝ったと言っても過言ではないと思う。最後の最後まで「使うぞ」と見せかけておいて抗議をさせずに、同点までは「抗議の権利」を残したまま試合を続けさせたりと素人目には危なっかしいシーンの連続だったがこれが審判対策に有効だった。
今回の五輪のフェンシングのコーチに順位をつけると、間違いなく日本チームの「マツェイチュク オレグ」が金メダルだろう。
まあそれともうひとつ別の感慨というと、前々の大会ぐらいから知っている人の息子だとか娘だとか姪とかがオリンピックに出ていたりしてそのたびに「へー」という感じはしていたが、今回の銀メダルチームには高校時代の先輩の息子がいる。
その彼のピスト(競技台)上での構えから体の動きまでが、自分が高校のときに見た(一緒に練習もしているはずの)彼の父の動作と実にそっくりで、なんかほのぼのとしてしまった。
時代は、本当に本当にもう自分たちのものじゃなくなっているね。
爺か。
聞けば、やはり多くのマスコミが、今回の成績を踏まえて、こうなった原因として、指導方法と少子化とランキング制度に対応しきれていなかった選手強化策と予算不足とともに監督コーチの人選のことを問題にしていた。(ほとんど全部じゃないかという気がするが…)
なんか今回のオリンピックは暗いですな。みんな見ているはずなのに結果が伴わない銀だとか銅ばかりだというのが大きいだろう。特に銀メダルということは多くの場合「決勝で負けた結果」だったりするので、やたら銀メダルの多い今回のロンドンオリンピックではそれが影響しているのかもしれない。まあ自分からすれば、結果が銀だろうが銅だろうが、選手はがんばっているじゃないかという思いとともに、やはり選手個人、チームあるいは日本選手団に暗く落ちている「陰の部分」が、どうしても選手のそばにいる監督・コーチのせいのような気がしてならない。
しかし逆の例があった。
前にフェンシングのエペをネットで全試合(個人男子)見たと書いたところ、意外や意外食いつきがよかったみたい。
べ、別に隠していたわけではないが、自分は20代前半(21歳か22歳)まで、ちょいとばかしフェンシングのエペをたしなんでいた競技者あがりなのだ。
高校時代も2年までやっていた。但しフルーレである。
まあテレビでフェンシングの世界大会や五輪の試合など、この日本では見れたものではなかったのだが前回北京でフルーレ男子の太田雄貴選手が銀メダルをとるという快挙を受けて、地上波でフルーレの試合だけは男女とも見れたのは、なんか言葉は悪いが「もうけた」という感じだった。
女子のほうは全体的にイマイチだったが、最後の最後でフルーレの団体(男子)が思わぬ好成績で銀メダルを取れたことは実に喜ばしい。
自分が見ていたのは準々決勝の中国戦から決勝戦までの三試合のみだが、何に驚かされたかというと、日本人選手の技術、スピード、パワー、試合運びの上手さ、どれもが自分が知っていたころからすると格段に上がっていて、「別の一流国の選手か」と思ったくらいだった。
そしてそれ以上に改めて感じたのはどの競技であろうとそうだろうが、監督・コーチの大切さである。
現在のフェンシングのルールはちょっと変わってきていて、選手一試合一回だけ審判の判定に対して「抗議」が認められ、ビデオを使った再判定を申し出ることができる。
日本のコーチ(ウクライナ人)が、実にこの抗議を使うタイミングが上手というのか、すごかった(あくまでも結果論として)
特に準決勝のドイツ戦は日本チームのこのコーチの駆け引きで勝ったと言っても過言ではないと思う。最後の最後まで「使うぞ」と見せかけておいて抗議をさせずに、同点までは「抗議の権利」を残したまま試合を続けさせたりと素人目には危なっかしいシーンの連続だったがこれが審判対策に有効だった。
今回の五輪のフェンシングのコーチに順位をつけると、間違いなく日本チームの「マツェイチュク オレグ」が金メダルだろう。
まあそれともうひとつ別の感慨というと、前々の大会ぐらいから知っている人の息子だとか娘だとか姪とかがオリンピックに出ていたりしてそのたびに「へー」という感じはしていたが、今回の銀メダルチームには高校時代の先輩の息子がいる。
その彼のピスト(競技台)上での構えから体の動きまでが、自分が高校のときに見た(一緒に練習もしているはずの)彼の父の動作と実にそっくりで、なんかほのぼのとしてしまった。
時代は、本当に本当にもう自分たちのものじゃなくなっているね。
爺か。
2012年7月27日金曜日
うなぎのぼり
鰻の蒲焼も苦手かな。決して嫌ってるのではないが。
昔の知り合いに大の鰻好きがいて、音楽著作権に関するゼミナーの帰りなどに、東京台東区上野にある鰻蒲焼の名店や日本橋にある高級店に連れまわされたことがあった。
普段はそうは見えない彼が、鰻のことになると、まるで金銭感覚がマヒした成金のおっさんみたいになって店員に向かってごくあたりまえのように「特上 二つ」とか言い放つのにはホント驚かされた。一人前3500円もする特上うな重である。
自分が苦手に感じているのはこういう業界での格付けと実際の味が乖離(かいり)した物件も珍しかろうということ。いうほど国内天然物のうなぎなんてそんなに美味しいものではない。ただ値段だけがバカ高いだけでしょう。
この世には、その昔の知り合いよりも、ずっと鰻の蒲焼を信奉している人はいくらでもいるだろう。このあいだも聞いていたラジオ番組に「出前取るなら寿司じゃなくてうな重」と言い切っていた作家の方が出ていた。(『お客様のときは寿司にしなさい』と奥さんにたしなめられるのだそうだ)
さて、自分にとって一番美味しかった鰻の蒲焼だが、それは20年ほど前に食べたものだ。(確か)霞ヶ浦近くの、トラックやタクシーの運転手相手の駐車場がやたらだだっ広くてそして店の中が少し野卑な感じのするドライブインみたいな食堂で食べた「肝吸い付きお代わりあり」セットにとどめを刺す。
蒲焼二枚乗せはまあ普通なのだが、肝吸いが実に美味しいのと、そのお代わりのシステムにぐっときた。お代わりをすると、タレを掛けたご飯だけが出てくるのだ。落語で白いご飯を持って鰻屋の前で匂いをおかずにして食うというのがあるがまさしくそれ。鰻蒲焼本体は出せないが、タレとご飯はサービスで出すから、さっき食った鰻の蒲焼の味の記憶でうな重として食え、みたいな豪快なシステムが気に入ってしまった。しかもそれで1000円以下だったからね。安いといえばこんな安いうな重セットも珍しいだろう。
それからどれだけの数のうな重や蒲焼を食ったか、あるいは食わされたかわからないが、それを越えるうな重にはまだお目にかかったことがない。
さて今年も土用の丑の日(7月27日)を迎えて、鰻の蒲焼が高くなるシーズンが一段落ついた。
自分は当然パスといいたいところだが、まあおそらくはどこかで鰻の蒲焼を食べていることになるのだろうね。いや最近のファミレスで出てくるうな重も味と値段のコストパフォーマンスを考えるとなかなかのものですよ。決して徒や疎か(あだやおろそか)にできたものではない。
というか、自分もだし多くの人も思うのところだろうが、ファミレスのうな重ってなんであんなに安いのだろう。ちと不思議である。いや不思議だった。答えは実に簡単で正規のルートを通すと高くなるだけといわれる輸入物養殖鰻生魚も現地で加工したものを輸入してこちらで調理するだけで価格が1/2とか1/3くらいだからだ。それどころかむしろ海外の輸出用鰻の相場は下落傾向なのである。稚魚の流通量も特に目だって少なくなっているというのでもなさそうだ。
わかりやすくいうと、海外の養殖業者と輸出業者(とファンド)が「鰻は品薄だから高い」という嘘情報を流して価格吊り上げを計っているだけというのが真相に近い。
こういう事件も起きたようだ。
TV「鰻の相場上がってますか~?」鰻屋「そうでもない」TV「じゃあ値段上がってる別の店で取材するわ」
問題のうなき屋さんのブログ
http://ameblo.jp/unagiyasan/entry-11310880083.html">http://ameblo.jp/unagiyasan/entry-11310880083.html
この記事の信憑性を疑う声もあったようだが、自分は別の意味で、この鰻屋さんの証言を信じる。もちろんそれは自分もまたこういうふざけた感じの取材を何度もテレビ局からうけたことがあるからだ。
情けないことにテレビ局というものは「事実を追って取材するのでなくて、いつのまにか取材を元に事実を作り上げるメディア」になってしまっているのである。
それは東京だけでなく関西だけでなく、全国各地がそうなりつつあるという点だけは怖いことだと思う。
2012年7月25日水曜日
二度目の夏
昨年の今頃、自分はいくつかのグループと連絡を取り合い、仙台の沿岸部の瓦礫の除去作業と、そして道路の緊急復旧作業のようなことに没頭していた。
とにかく昨年の夏は酷かった。
夏の照りつける暑さと、そしてたちこめる悪臭との戦いだった記憶しかない。
だから日を経て人の数が次第に減ってゆくことに対しても寛容でいられたと思う。
むしろやめてゆく人たちのほうが人として正しいんじゃないのかというような気がしていたからだ。
それでも自分は「震災からまだ4ヶ月だから」というあきらめと踏ん切りだけで眼前の作業に没頭できていたような気がする。
それから一年が過ぎたわけだが、じゃ状況はよくなったかというとまったくなのだ、これがまた。
むしろ二年目を迎えてしまったことで新たな困難を抱え込んでしまったといってもいい。
ひとつはこういう作業をつづけている我々のこころの中の大きな変化というものだろう。
モチベーションのありかである。「何のために」が根こそぎ刈られてしまった人もいる。
何も隠さずに、包み隠さずに言ってしまうと、自分にもそういうところがある。
これはほとんど八つ当たりに近いのだが、そういうこころが疲れ果てたときだと、町中いたるところで目につく「頑張ろう宮城頑張ろう東北」の文字にさえイラつくことがある。
「頑張るのはあたり前じゃないのか」とか。
誰だって皆頑張っている。その頑張っている人に向かって「頑張れ」と言ってどうするの。掛けるならもっと別の言葉があるでしょうよ、みたいな焦燥に陥るのだ。
どこかのコンビニか何かのウィンドウに「あなたの今日の頑張りはきっと誰かが見ている」と書かれたポスターがあって、それを見たときだけは少しほっとした。こころが動いた。
それに続くフレーズが自分の心の中にくっきりとうかんだからだ。
二年目の夏、ここ宮城ではたくさんの人がそういうジレンマというか心の傷と戦っているのです。
ご理解ください。
とにかく昨年の夏は酷かった。
夏の照りつける暑さと、そしてたちこめる悪臭との戦いだった記憶しかない。
だから日を経て人の数が次第に減ってゆくことに対しても寛容でいられたと思う。
むしろやめてゆく人たちのほうが人として正しいんじゃないのかというような気がしていたからだ。
それでも自分は「震災からまだ4ヶ月だから」というあきらめと踏ん切りだけで眼前の作業に没頭できていたような気がする。
それから一年が過ぎたわけだが、じゃ状況はよくなったかというとまったくなのだ、これがまた。
むしろ二年目を迎えてしまったことで新たな困難を抱え込んでしまったといってもいい。
ひとつはこういう作業をつづけている我々のこころの中の大きな変化というものだろう。
モチベーションのありかである。「何のために」が根こそぎ刈られてしまった人もいる。
何も隠さずに、包み隠さずに言ってしまうと、自分にもそういうところがある。
これはほとんど八つ当たりに近いのだが、そういうこころが疲れ果てたときだと、町中いたるところで目につく「頑張ろう宮城頑張ろう東北」の文字にさえイラつくことがある。
「頑張るのはあたり前じゃないのか」とか。
誰だって皆頑張っている。その頑張っている人に向かって「頑張れ」と言ってどうするの。掛けるならもっと別の言葉があるでしょうよ、みたいな焦燥に陥るのだ。
どこかのコンビニか何かのウィンドウに「あなたの今日の頑張りはきっと誰かが見ている」と書かれたポスターがあって、それを見たときだけは少しほっとした。こころが動いた。
それに続くフレーズが自分の心の中にくっきりとうかんだからだ。
二年目の夏、ここ宮城ではたくさんの人がそういうジレンマというか心の傷と戦っているのです。
ご理解ください。
2012年7月18日水曜日
文学としての横溝正史作品
「ドラマを全然見なくなった」と書いたが例外があった。今BSでやっている古谷一行主演の「金田一耕助シリーズ」はわりと見ている。
もう30年以上も前のテレビドラマシリーズなのだが、実は自分がこれをちゃんと見るのは初めてなのだ。オリジナルの放送時間は仙台も東京(横浜)もまったく同じで土曜日の10時(つまり必殺シリーズと同じ時間帯)だったが、その時間帯、自分がどこで何をしていたのかなんて思い出せないし結びつきもしないが、きっと何かの理由があって家に(下宿先にも)いなかったからなのだろう。
はっきりいって、当時自分はこのテレビシリーズのことを見下していたのだと思う。
少し前に「やはり横溝正史というと(石坂浩二主演の)角川映画があって、あれ(テレビドラマ)はおちるな」みたいな感じで統括して同意を求めてきたヒトがいたが、それとも違う。映画>ドラマという順位づけでテレビドラマを見下していたわけでもない。強いていうと「原作>>>映画とドラマ」という構図づけをして、映画とこのテレビドラマシリーズのことを「少しおちたもの」と見下していたのだと思う。
その後ビデオレンタルの仕事をしててこのテレビドラマのビデオソフトを扱ったりもしているので、もう少し愛着みたいなものやそれにまつわる思いでくらいあってもよさそうなものだがそれすらない。
まあそういうあまりプレーンとはいえない状態でこの金田一シリーズを30数年の時を経て(しかも録画じゃなくて生視聴で)見ているわけだ。
自分の率直な感想を言うと「映画よりも原作に近い分だけ真面目といえるかな」という感じ。
たとえばいまやっているのは第二シリーズの「八つ墓村」なのだが、映画(1977年松竹)と比べても丹念な原作トレースがされていて[註]自分は原作を読んでいたときのことを思い出したくらいだった。
本音を言うと横溝正史の(金田一物でもそれ以外も)作品は実は映像作品には向いていないんじゃないかという気がしている。
自分がはじめて横溝正史の小説を読んだのはおそらく子供のころに読んだジュブナイルシリーズのどれかだろうが、それを別にするとまちがいなく中学のころに読んだ春陽堂文庫から出ていた「本陣殺人事件」である。
今でこそ割と本格推理の枠内で評価の定まった名作推理小説であるが、発表当時はあまり好意的な捉え方はされていなかったといわれている。そのあたりは当時のことに詳しい諸氏による書評を読まれることをお薦めする。
初読時(中学生だし)には正直何がなんだかよくはわからなかっただろうから[註 追加]こんなことを考えるようになったのは相当あとになってからだろう。
横溝正史の探偵小説の諸作品を自分が文学として高く評価しているのは、古い因習であるとか伝承というものの犠牲者となった人たちに対する憐憫と、そういう因習や伝承というものを悪用する人たち(犯罪者)に対する横溝の冷たい視線があるからだ。
これ(横溝の視線)は、自分がこのブログでインチキのオカルトをでっちあげる人たちに対して向けている視線とほぼ同一のものである。
どうもね、映画にしてもドラマにしても映像化されてしまうとそこのところがぬるくて逆に横溝正史作品というと「オカルトもの」という感じで受け取っているひとがほとんどのような気がする。そこのところがとても残念なのだ。
[註]八つ墓村を映像化したものでは何故かひとり重要なキーパーソンである女性がでてこないことが多い。このテレビシリーズもそうだ。1996年に豊川悦司主演で映画されたのには出ていたような気がするが、記憶だと、事件の本質からは遠いところにいるような小さな役になっていた。
[註 追加]ネタバレになってしまうが(もういくらなんでもいいでしょう)小説「本陣殺人事件」の真犯人は殺された被害者の夫のほうで、結婚前に花嫁から非処女であることを打ち明けられてそれに絶望しての無理心中というオチ。最初それを読んだときには「そういうもんなのか」ぐらいにしか思わなかったはずだ。
自分がこの小説の二重のトリックに気づいたのはそれから10年後くらいのことか。当時交際していた女性から「実は…」という感じで自らの性体験を告白された(まあそんな深刻なものでもない)ときかな。何も言わなかったが内心は「そのくらいのことぐらいはとっくに気づいておるわ」という感じだった。なんで彼女がそんなことをわざわざ口にしたかというと(うぬぼれなしで)おそらくは彼女が自分との結婚を考えていたからなのではないのか。
また、ほぼ同時期のこと、友人の先輩が自殺してしまったことがあった。自殺したその先輩だが、自分も面識があったのだが、明朗で人当たりの良い人で自殺とは縁遠い感じだったので自分も(その死に対してだけでなく)かなりショックを受けた。
自殺の理由だが(たぶんそれがすべてではないだろうが)結婚を真剣に考えて交際していた女性から別れ話を切り出されて、それどころかすでに彼女は別の男性と交際中(つまり性交渉を含めて)であることが誰からかの口から発覚し、彼はヤケになって大酒を飲んでその女性の家の前にあるビルから飛び降りるというものだった。さらに続きがある。これは友達から聞いた話だが、葬式には件の元交際女性も(ほかの友達と一緒に)参列したという。友人は半分憤慨し半分あきれ返り「人目もはばからずって感じでワンワンなきまくっていたよ ウソ泣きだろうが 女って怖いわ」と言っていたが。
これはそのまたその後のはなし。風の噂だが、その女性はそれから一年も経たないうちにその新しい彼氏と結婚したという。友人からの伝えでは(女性も)皆が彼女の葬式での軽瓢な言動とその後のすばやい身の振り方に対して悪口ばかりになったそうだ。
しかし女なんて皆そんなもんだろう。自分はそう思っていたので、その彼女に対しては友人たちと同じような悪感情は持てなかったものだ。
まあはっきり言うと、自分はその友人の先輩を死まで追い詰めたのはその女性だと思っている。彼女は非常に残酷なやりかた(ほかの男性との二又交際)で交際していた先輩を精神的に追いやりそして決断を迫った。が先輩は別の決断をしてしまったとそういうことだろう。言ってしまうがやっぱり(たかだか交際のもつれなんかで)自殺する奴が間違っているのだ。自分はそのように考えていた。
さて、話を戻すが、小説「本陣殺人事件」の真犯人だが、それは無理心中を図った男ではなくてむしろ共犯関係にあった加害者の実弟だろう。そしてその弟を突き動かしたのは無理心中の被害者になってしまった花嫁だったのではないか。
きっと横溝は「これは探偵小説でなければならない」という線引きをして「さらにもうひとつのオチ」にまでは踏め込めなかったような気がする のだが。
まあだからこれは自分の推測というか自分が当時「ナウな男女関係の在り方」から学んだ「新解釈」である。
「本陣殺人事件」の事件の真相だが、無理心中の被害者となってしまった花嫁の算段は夫の単独の自殺であり、彼女の目的はこの因習に縛られた結婚からの逃亡だろう。彼女の前には新しい、堅物の夫よりも魅力的な義弟がいるのだ。彼女が義弟から内密に聞かされていたのは「兄は自殺するがあなたに疑いがかからないようにトリックを使う」ということなのでは。(実際、最近似たような偽装殺人がありましたな)が兄は弟に打ち明けていたのとは別の行動(妻を殺害してから自らも果てるという無理心中)をとってしまう。しかも想定外だったのは夜半から降り出した雪が積もり密室となってしまった。
という見方をすると、新郎が新婦が傷物だったことに腹を立てての凶行というオチにしてしまった横溝正史の「本陣殺人事件」が、さらにその奥にある深層的真相である種の新文学として蘇るのである。
どこかの映画会社が今度「本陣殺人事件」を映画化するときには、こういう新しいオチを付け加えるたりしそうでちとそれが怖い。
文字で構成する文学としてならともかく、こういうのを映像化するとものすごくツマンナイものになりそうだし。
2012年7月12日木曜日
パンダ死亡
逆にVANさんというかたから「上野のパンダに関する予言とか来るようになったら一流ですね」みたいな、半分以上本気とは思えないメールが来ていたりするくらいだからここでそれについて書くのもどうかという気はしている。
まあ自分が書きたいのはそういうこと(予言の類)ではない。
「上野動物園のパンダの新生児が死んだらしい」というニュースを耳にしたのはその日の午前中だったか。たぶん、TBSの速報よりも早かったはずだ。
「今、東京都から電話もらいました」と仙台市の職員が押し寄せる電話での問い合わせに閉口するかのように上司に報告する姿を自分はこの目で見ている。その後になってから誰かが「東北放送(TBS系列)で一報!」というような情報が流れたようだった。
自分はなんかめんどくさいことになりそうだなと感じ、その上司に向かって「じゃ 昼だし、俺はここいらで」と暇(いとま)することを告げた。そうしたら、上司の顔にほっとしたような表情が浮かびうなずいたのが印象的だった。
「あなたどこにいたの?」と言われそうだが、申し訳がないがそれ以上のことは業務上の守秘義務で書けない。
さて、仙台市が上野のパンダのことにナーバスになっているのは、おそらく来年か再来年には仙台の動物園にパンダが来ることがほぼ決まっているからだろう。
単なる気分でこんなことを書くのではない。
自分は仙台にパンダはいらないと思う。そしてそれは意外にもというか当然というべきなのか仙台市民のほとんどがそう考えている。
では誰が積極的に「仙台にパンダを」と推し進めているかというと、むしろ仙台以外のところの人たちがほとんどだということが明らかなのである。
「何故仙台にパンダ」なのか。ホントによくわからない。考えれば考えるほどわからなくなる。
むしろ「仙台なんかにパンダを呼んで来ることの無意味さばかりがクローズアップしてくるくらいだ。
たとえば、積極推進派がパンダ招聘の理由として挙げている経済効果だが、試算がどうにも怪しい。「5年間で50億」というのはいくらなんでも盛りすぎ。誰でもがわかる。その中身を確かめると
「上野動物園や王子動物園では、ジャイアントパンダの導入初年度で入場者数がほぼ倍増となっております。八木山動物公園についても、同様に入園者が倍増すると仮定した場合、50万人ほどの増加が見込まれることから、これに平成21年度宮城県観光動態調査の平均消費額を掛け、経済効果を50億円と推計したものです」(仙台市のホムペに同内容の記載あり)などと書かれた答弁書がかえってきたりするのだ。
アホすぎる。突っ込みどころ満載でしょう。パンダ二頭目的で仙台(の動物園)に日本各地から五年間も人が押し寄せると踏んでいるのだこの人たちは。
そして、観光客が増えようが増えまいが、年にパンダ一頭につき年に約一億、つまり二億ぐらいの費用は必要になる。その費用を仙台市は「出したくない」といっているのだ。
じゃなんのための施策なのだろう。こんなザルだらけの試算を誰が喜ぶのか誰が歓迎するのだろう。「子供たちの笑顔のために」というのはお題目として立派だが、しかしこの美辞麗句に踊らされて結局泣くことになる人ばかりが続出するだけでしょう。
自分は個人的にこのパンダが来るという「八木山動物公園」に対して恨みもなもないけれど、もしパンダを招聘してそれを観光の目玉にというのであればそれはあんな山の上にある動物公園ではなくて、もっと市中に近いところに新たに特別な施設として作るべきだろうし、「経済効果は二の次」というのであれば、やっぱり仙台市は自力で予算をまかなうだけの体力をもつべきだろう。
「上野や王子」なんていう大人口地区をバックにしたところの実績をもってきて、それは100万規模の地方都市のそのさらに山のほうにある動物公園で起きるとかいうのは無理がありすぎる。起きるはずはない。
いうまでもないことだが、上野公園はアクセスのよい平地の、しかも人口の密集地にあるし、神戸の王子公園もまた海沿いの交通のアクセスのよい(市役所から5キロ)にある中心地にあるのだ。
これらを持ち出してくるのがいかに愚かなのかぐらいは誰でもわかるでしょう。
だから自分はこれをもってして「仙台(八木山動物園)にパンダはいらない」と強く主張している。
まあ自分が書きたいのはそういうこと(予言の類)ではない。
「上野動物園のパンダの新生児が死んだらしい」というニュースを耳にしたのはその日の午前中だったか。たぶん、TBSの速報よりも早かったはずだ。
「今、東京都から電話もらいました」と仙台市の職員が押し寄せる電話での問い合わせに閉口するかのように上司に報告する姿を自分はこの目で見ている。その後になってから誰かが「東北放送(TBS系列)で一報!」というような情報が流れたようだった。
自分はなんかめんどくさいことになりそうだなと感じ、その上司に向かって「じゃ 昼だし、俺はここいらで」と暇(いとま)することを告げた。そうしたら、上司の顔にほっとしたような表情が浮かびうなずいたのが印象的だった。
「あなたどこにいたの?」と言われそうだが、申し訳がないがそれ以上のことは業務上の守秘義務で書けない。
さて、仙台市が上野のパンダのことにナーバスになっているのは、おそらく来年か再来年には仙台の動物園にパンダが来ることがほぼ決まっているからだろう。
単なる気分でこんなことを書くのではない。
自分は仙台にパンダはいらないと思う。そしてそれは意外にもというか当然というべきなのか仙台市民のほとんどがそう考えている。
では誰が積極的に「仙台にパンダを」と推し進めているかというと、むしろ仙台以外のところの人たちがほとんどだということが明らかなのである。
「何故仙台にパンダ」なのか。ホントによくわからない。考えれば考えるほどわからなくなる。
むしろ「仙台なんかにパンダを呼んで来ることの無意味さばかりがクローズアップしてくるくらいだ。
たとえば、積極推進派がパンダ招聘の理由として挙げている経済効果だが、試算がどうにも怪しい。「5年間で50億」というのはいくらなんでも盛りすぎ。誰でもがわかる。その中身を確かめると
「上野動物園や王子動物園では、ジャイアントパンダの導入初年度で入場者数がほぼ倍増となっております。八木山動物公園についても、同様に入園者が倍増すると仮定した場合、50万人ほどの増加が見込まれることから、これに平成21年度宮城県観光動態調査の平均消費額を掛け、経済効果を50億円と推計したものです」(仙台市のホムペに同内容の記載あり)などと書かれた答弁書がかえってきたりするのだ。
アホすぎる。突っ込みどころ満載でしょう。パンダ二頭目的で仙台(の動物園)に日本各地から五年間も人が押し寄せると踏んでいるのだこの人たちは。
そして、観光客が増えようが増えまいが、年にパンダ一頭につき年に約一億、つまり二億ぐらいの費用は必要になる。その費用を仙台市は「出したくない」といっているのだ。
じゃなんのための施策なのだろう。こんなザルだらけの試算を誰が喜ぶのか誰が歓迎するのだろう。「子供たちの笑顔のために」というのはお題目として立派だが、しかしこの美辞麗句に踊らされて結局泣くことになる人ばかりが続出するだけでしょう。
自分は個人的にこのパンダが来るという「八木山動物公園」に対して恨みもなもないけれど、もしパンダを招聘してそれを観光の目玉にというのであればそれはあんな山の上にある動物公園ではなくて、もっと市中に近いところに新たに特別な施設として作るべきだろうし、「経済効果は二の次」というのであれば、やっぱり仙台市は自力で予算をまかなうだけの体力をもつべきだろう。
「上野や王子」なんていう大人口地区をバックにしたところの実績をもってきて、それは100万規模の地方都市のそのさらに山のほうにある動物公園で起きるとかいうのは無理がありすぎる。起きるはずはない。
いうまでもないことだが、上野公園はアクセスのよい平地の、しかも人口の密集地にあるし、神戸の王子公園もまた海沿いの交通のアクセスのよい(市役所から5キロ)にある中心地にあるのだ。
これらを持ち出してくるのがいかに愚かなのかぐらいは誰でもわかるでしょう。
だから自分はこれをもってして「仙台(八木山動物園)にパンダはいらない」と強く主張している。
2012年7月10日火曜日
仙台89ERSに対する提案
少し気が早いが、もうすぐバスケットボールのシーズンが始まる。
今までは場所が離れていたためにあまり興味もなく観戦回数も5回ぐらいだったbjリーグ「仙台89ERS(エイティーナイナーズ)」の試合告知のポスターを見たりするといろいろと考えることが多くなってしまった。
一度いってみるとわかるが、bjリーグの(まあプロバスケットボールの試合ということになるが)チアリーダーとファン一体となった応援の盛り上がり方は野球ともサッカーとも違っていて実に洗練されていて、ファンでなくても、それを見ているだけでも結構楽しい。入場料もかなり安いのでお近くにbjリーグのチームのホームタウンがあるという方は一度足を伸ばしてみるのことをお薦めする。選手のスーパープレーを間近で見られるプロバスケの生観戦はサッカーとも野球ともまったく違う魅力がある。
さて、この「仙台89ERS」もまた震災の影響をモロに被ってしまい一シーズンを通してのフルでの活動ストップを余儀なくされており、今年(2012-13)が再開の最初の本格シーズンとなる。
まあ自分はバスケなど競技経験もなくただ見るだけの人なので、どうしてもチームであるとか試合を見る見方が浅い(といわれる)。
そんな外部者の私であるが、ひとつどうしてもこの仙台89ERSに対して言いたいことがある。
チーム名に関することだ。
チーム名の由来[註]はホームページにもあるしウィキペディアにもあるが、「89ERS(エイティーナイナーズ)」というチーム名がイマイチ弱いのは、仙台の市民誰一人として自分のことをエイティーナイナーズとは思ってないことだろう。中には「仙台だったら77ERSだろう[註]」と言い切る人も多い。
変えられるものならばこのチーム名変えたほうがいいような感じがするのだが。でないと仙台のファンはもうこれ以上増えないような気がする。
新しいチーム名としてだが、たとえばこんなのはどうだろう。
その昔自分が書いたシナリオ(不採用)の中で、「DATE CHARGERS(ダテ・チャージャーズ)」という仙台を本拠地とするサッカーチーム(クラブ)を登場させたことがあった。意味はそのまんま「伊達軍馬隊」である。
さて、このチーム名のミソは略称(愛称)が「DAT☆CHA」になることだ。「ダッチャ」つまり「仙台ダッチャ」。これならば仙台の誰が聞いても「おお仙台のチームだっちゃ」と耳目を集めること間違いなしだと思うのだが。
大阪の「エヴェッサ」、京都の「ハンナリーズ」と混じっても地域性が感じられる、そしてひけを取らないインパクトのあるチーム名だと思うんだが。どうでしょう、関係者の皆様。
2012.07.10
[註]1898年に仙台が市となったのと1989年に政令指定都市になったこのふたつから。
[註]仙台市に本店を置く第一地銀が「七十七銀行」だから。
今までは場所が離れていたためにあまり興味もなく観戦回数も5回ぐらいだったbjリーグ「仙台89ERS(エイティーナイナーズ)」の試合告知のポスターを見たりするといろいろと考えることが多くなってしまった。
一度いってみるとわかるが、bjリーグの(まあプロバスケットボールの試合ということになるが)チアリーダーとファン一体となった応援の盛り上がり方は野球ともサッカーとも違っていて実に洗練されていて、ファンでなくても、それを見ているだけでも結構楽しい。入場料もかなり安いのでお近くにbjリーグのチームのホームタウンがあるという方は一度足を伸ばしてみるのことをお薦めする。選手のスーパープレーを間近で見られるプロバスケの生観戦はサッカーとも野球ともまったく違う魅力がある。
さて、この「仙台89ERS」もまた震災の影響をモロに被ってしまい一シーズンを通してのフルでの活動ストップを余儀なくされており、今年(2012-13)が再開の最初の本格シーズンとなる。
まあ自分はバスケなど競技経験もなくただ見るだけの人なので、どうしてもチームであるとか試合を見る見方が浅い(といわれる)。
そんな外部者の私であるが、ひとつどうしてもこの仙台89ERSに対して言いたいことがある。
チーム名に関することだ。
チーム名の由来[註]はホームページにもあるしウィキペディアにもあるが、「89ERS(エイティーナイナーズ)」というチーム名がイマイチ弱いのは、仙台の市民誰一人として自分のことをエイティーナイナーズとは思ってないことだろう。中には「仙台だったら77ERSだろう[註]」と言い切る人も多い。
変えられるものならばこのチーム名変えたほうがいいような感じがするのだが。でないと仙台のファンはもうこれ以上増えないような気がする。
新しいチーム名としてだが、たとえばこんなのはどうだろう。
その昔自分が書いたシナリオ(不採用)の中で、「DATE CHARGERS(ダテ・チャージャーズ)」という仙台を本拠地とするサッカーチーム(クラブ)を登場させたことがあった。意味はそのまんま「伊達軍馬隊」である。
さて、このチーム名のミソは略称(愛称)が「DAT☆CHA」になることだ。「ダッチャ」つまり「仙台ダッチャ」。これならば仙台の誰が聞いても「おお仙台のチームだっちゃ」と耳目を集めること間違いなしだと思うのだが。
大阪の「エヴェッサ」、京都の「ハンナリーズ」と混じっても地域性が感じられる、そしてひけを取らないインパクトのあるチーム名だと思うんだが。どうでしょう、関係者の皆様。
2012.07.10
[註]1898年に仙台が市となったのと1989年に政令指定都市になったこのふたつから。
[註]仙台市に本店を置く第一地銀が「七十七銀行」だから。
2012年5月8日火曜日
[オカルティズム入門]
5月7日の月曜日、実に珍しい経験をした。
この日都合7回ほど買い物をして、そのうち3回レジのつり銭の受け渡しの間違いに遭ったのだ。しかも、それだけではなくて、自分の前にいた客がつり銭受け渡しミスでトラブるのを真後ろで見たという「確率的にどんだけなのよ」という珍しい体験だった。
最初は仙台の東、某ホムセンにて。1196円の買い物で10000円札を出したところ、8804円のつり銭のはずが8004円渡されたのだ。すぐに「800円足りない」と気がついたので店員にクレームをすると、その店員が「先にお渡ししたはずですが」と言ってきたのだ。それで、自分は「!」となり、それがありえないことだということを注意して少し大きなトラブルになってしまった。
結局、店長代理レベルの人が出てきて、レジ現金の実差を経て、こちらの言い分が正しいことが証明された。その店長代理のかたは平身低頭だった。足りない800円も戻ってきたのでそれ以上のことは何もいわずに自分はそのホムセンを出た。これからもそのホムセンを利用することはあるわけで、自分としてもそれ以上のことは言うつもりはなかった。約30分の時間のロスはあったが。
自分が引っかかったのは、店員が「最初にお渡ししたはずですが」といったことだった。その言い分がどれだけおかしいかについて注意してやろうとも思ったが、結局は止めたのだ。どういうことかというと、もし、本当にその店員が先に「800円を渡した」のならば、その店員は釣り銭のミスよりも、もっとおかしなことをやっていることになるだろう。釣り銭として先に札の8000円を渡す。ここまではいい。問題はそのあとで、この店員は「硬貨を800円と4円、別々にしてつり銭として渡した」と言っていることになる。しかし、都合三回に分けて客に釣り銭を渡すレジオペレーション」なんてあるはずがない。だから自分は「それはありえない」と言ったのだが。
次はどんぶりものを中心としたファーストフード店。全国チェーン展開をしているかなり名のしれたところである。待ち合わせをしていた仕事仲間が「先に飯食いたい」というので付き合った。
会計は後払いのシステムである。しかも会計の際レジの店員はメニュー毎の金額を入力しなくていいようなシステムになっている。
食事を終えて会計するとちょっとどころか相当に高い。レシートを先に見せてもらうと[註]、何故か頼んでもいないサイドメニューが入っていた。「これ、前、隣りにいた客の分だろ」と言うと、店員一瞬目が点になって「あっ、失礼しました!」と詫びて、改めて正しい金額を打ち直した。そこでも自分は「!?」となった。まあ自分が損をするわけでもないのでそれも追求せずにその店をあとにしたが。自分たちより先に入っていて隣にいた3人組があとからそのサイドメニューを追加したのを自分は見ていた。なのですぐに「前の客の分だろう」とクレームをすることができた。もし離れていた場所だったら、あるいは入れ違いだったらこうはならなかったはずだ。そういう意味での幸運はあった。
自分が「!?」となったのは「じゃ、あれか、そのサイドメニューの分はその客は払ってなかったということじゃんか」ということ。結果からするとこれは単純な店員のミスになるが、そこに至るまでは謎がいくつかある。その前の客は会計のときにサイドメニューの分が入ってなかったことに気づかずにいたのか知ってて「得した」とそのまま知らん振りして出てきたのかとか。それよりもまず、最初の段階で(つまりこちらが会計する前に)何故そのミスに店の誰も気がつかなかったのかとか。
三度目はコンビニで。レジの自分の前の客が突然怒鳴りだした。詳細はわからないがどうやらつり銭の受け渡しミスのようだった。レジをやっていた店員の名札の「研修生」の文字を見て「やっちまったなぁ」と同情はしたが。
最後は再び自分の身の上に起こった。ちょっとこれは業種は隠す。業種だけで仙台の人間ならば「店」が特定されかねないからだ。自分は1325円の買い物で2千円(札二枚)を出して渡されたつり銭が675円でなくて275円、つまり百円玉が二枚あったのだ。
自分は、つり銭を手渡しされた「左手」をそのまま店員にみせて「違う」と即クレームを入れた。するとその店員はバツの悪そうな顔をして(あやまりもせずに)百円玉を4枚渡そうとしたので、そこで再び「!」となって「いや五百円玉で」というと、なんとその店員「ないんです」とぶっきら棒に答えたのだ。
で「なにそれ?」というと、今度は「ないものはないんですよ!」と逆ギレ状態である。そこで「じゃなにかい?キミはないはずの五百円玉と百円玉を見間違えたっていうんだ…」というと、言葉に詰まったその店員は真っ赤な顔になって、なんと自分のポケットから財布を出して「これで」と五百円をカウンター替わりのテーブルにビシャという感じで叩きつけたのだ。
この態度も問題だが、それよりなによりやっていること自体がすでに無茶苦茶である。店の金であるレジ金のかわりに自分の金を出すというのは手続き的にもおかしいことだし、最初につり銭を渡した時点から何かがおかしい。[註]そこで一緒にいた仕事仲間が口を挟んできて大揉め寸前までになったのだがそれについては省略する。長くなるしね。
ひとり増えて三人になったクルマの中でそのはなしになった。「きょう、かまたさん三回もレジでトラブってる」「確率的にすごくないですかそれ?」「コンビニで直前の客のトラブル目撃したの入れたら…」みたいな感じである。
確かに確率的には非常に稀な経験ではあるが、自分はその4回の事件を繋ぐ共通の原因はあったと見ている。
それはひとつは「連休明け」だったことと、おそらくそのためにだろう「シフトが手薄で研修だったりあるいは替わりに代役がレジに立っていたから」のふたつがあったのでこんなことになったのだろうと。
実際、残りの四回、家電量販店、書店、スーパー、そしてそのトラブル直後のコンビニでの買い物でのつり銭のトラブルはなかったわけだ。
もしこの「三回もレジのつり銭の受け渡しのトラブル、しかも全部向こうミス」なんてことがあったら、オカルトな人ならば「なんかの祟りじゃね?」ぐらいのことは思ったりするのかもしれない。
そういう方向への思考を全否定するわけではないが、そう考えるよりも先にするべきこと、考えるべきことは必ずいくつもあるだろう。
そういうことを言いたいのであって、だからこんなことも書いてみた。
2012.05.08
[註]「レジ打ちの時品目の読み上げはしなかったのか」という疑問が来た。してなかった。その時点でわたしは「?」となるべきだったかもしれないが。だから「ちょっとそのレシート見せてよ」と要求したわけだし、その店員もなんのためらいもなくレシートを先に見せたというわけだ。また、会計は二人分である。
[註]最初のホムセンもそうだったし、この「店」もそうだった。客に釣り銭の硬貨を手渡しで渡す前には必ず自分の手のひらに乗せて渡す硬貨の種類と枚数を目視で確認してもらい、そののち手渡しするのが正しいレジオペレーション。こうすることで釣り銭硬貨受け渡しのトラブルの99%とは言わないが90%は未然に防止できる。なのにここではそれをしていなかった。未熟なのか店のシステムがおかしいのかだ。でないとこういう手続きを省いたりしているところは、下手すると釣り銭ちょろまかしの店員が湧いてでてきたり常住してしまう危険もある。
[追記]二度目のファーストフードはつり銭ではないのではないかというご質問。そこのところは省いて書いたがつり銭で間違いない。具体的に書くとチェーン名がバレてしまうが「プリペイドカード」が介在している。
2012年4月29日日曜日
船越家
[船越家]
俳優の船越英一郎が家出したとかの騒ぎがあったらしい。
船越の妻でタレントの松居一代がブログで船越が家出中であることを明かし、それに各マスコミが食いついた形になった。がこれが実は船越が主演する新番組の宣伝だったことが明らかになり人騒がせな松居のブログに対する非難が巻き起こっているとか。
「なんかこれ『できの悪いプロレス』みたいな後味の悪さがありますよ…」てな感じの非難をしていた情報番組テレビの司会者がいたという。
この司会者の言う「できの悪いプロレス」がどんなものなのかは想像がつく。要するに八百長って言いたいんだろう。
でもそれを言うのならば一番八百長臭いことをやってるのはそのテレビ局だろう。
家出騒動を含めて松居一代を使って「番組の告知」をしたがっているのが見え見えだからだ。
「もうオレなんか『できの悪いプロレス』を『馬場鶴田時代の全日本プロレス』にして『出来の悪いブック(筋書き)の局が何言ってんだよ』と言いたいくらいだし」と言っていた知り合いがいた。
そうなんだよなぁ。考えてみると、松居のブログの記事も、取り上げてくれるテレビとかマスコミがあっての前提でなければありえない内容になっているわけで、そこのところは松居は正直すぎたというか、はっきりいって下手だった。
「これもステマなんすかね?」と聞かれたが、その場では「こんなへたっちぃのがステルスなわけないじゃん」としかいえなかった。
もっとも一番ひどかったのは日本テレビ(よみうりテレビ)の昼の情報番組の宮根誠司のクサい演技で、「ミヤネヤ「騙された」といってその場でアタマ抱えてしゃがみこんでました」とのこと。
要するに(視聴者を)騙している側なのに騙された側の人間であるふりの演技をしている宮根のその演技プラン自体がすでに出来の悪いものだったということ。
なんかひどいね。自分なんか空気読めない視聴者の代表というかひとりだろうから言うけど、宮根には「あんた番組前の打ち合わせには出てないのか」と突っ込みをいれているところだろうな、もしこの番組を見ていたら。
とにかく最近のテレビの情報番組の「雑さ」みたいなものを象徴するような出来事なので気になって取り上げてみた。
2012.04.29
俳優の船越英一郎が家出したとかの騒ぎがあったらしい。
船越の妻でタレントの松居一代がブログで船越が家出中であることを明かし、それに各マスコミが食いついた形になった。がこれが実は船越が主演する新番組の宣伝だったことが明らかになり人騒がせな松居のブログに対する非難が巻き起こっているとか。
「なんかこれ『できの悪いプロレス』みたいな後味の悪さがありますよ…」てな感じの非難をしていた情報番組テレビの司会者がいたという。
この司会者の言う「できの悪いプロレス」がどんなものなのかは想像がつく。要するに八百長って言いたいんだろう。
でもそれを言うのならば一番八百長臭いことをやってるのはそのテレビ局だろう。
家出騒動を含めて松居一代を使って「番組の告知」をしたがっているのが見え見えだからだ。
「もうオレなんか『できの悪いプロレス』を『馬場鶴田時代の全日本プロレス』にして『出来の悪いブック(筋書き)の局が何言ってんだよ』と言いたいくらいだし」と言っていた知り合いがいた。
そうなんだよなぁ。考えてみると、松居のブログの記事も、取り上げてくれるテレビとかマスコミがあっての前提でなければありえない内容になっているわけで、そこのところは松居は正直すぎたというか、はっきりいって下手だった。
「これもステマなんすかね?」と聞かれたが、その場では「こんなへたっちぃのがステルスなわけないじゃん」としかいえなかった。
もっとも一番ひどかったのは日本テレビ(よみうりテレビ)の昼の情報番組の宮根誠司のクサい演技で、「ミヤネヤ「騙された」といってその場でアタマ抱えてしゃがみこんでました」とのこと。
要するに(視聴者を)騙している側なのに騙された側の人間であるふりの演技をしている宮根のその演技プラン自体がすでに出来の悪いものだったということ。
なんかひどいね。自分なんか空気読めない視聴者の代表というかひとりだろうから言うけど、宮根には「あんた番組前の打ち合わせには出てないのか」と突っ込みをいれているところだろうな、もしこの番組を見ていたら。
とにかく最近のテレビの情報番組の「雑さ」みたいなものを象徴するような出来事なので気になって取り上げてみた。
2012.04.29
2012年4月18日水曜日
杉浦家のカレーライス問題
聞いたそばから脱力しそうな話題から。
なんでも俳優の杉浦太陽の妻でタレントの辻希美の作ったカレーライスのことが話題になっているという。
某テレビ番組に出演した辻希美がカレーのルウを作るときは子供のことを考えて野菜を細かくしていると発言したが、以前、辻がブログで公開した自宅の夕食の写真で写っていた手製のカレーはジャガイモとニンジンがコロっとしたものだったと。
そのことが話題になってから辻のブログが「炎上」状態だというのだ。
笑った。
いやなにも自分は辻希美を笑いものにしようとか、逆に弁護する気持ちもない。
ただ、「タレントの作ったカレーに嘘があった」と、まるで大問題であるかのように扱うネットのニュースサイトの価値観というものについてだ。アホでしょ。
この世にはいくつもの価値観が混在しているわけだからこのようなタレントの「言行不一致」は許せないという人もそりゃいるだろう。それはそれでいい。
ただそれを表明することに何か大きな意義というものはあるのか。本人に向かって「言ってることとやってることが全然違うじゃないか」とか文句を言うのは大衆として正義なのか。大衆ってのもあれだが「コモンセンス」というものは得られるものなのか。
そこがちとぢぶんにはよくわからない。もしタレントの作ったカレールゥにクレームをつけるのが「大衆の正義」なのならば、私がこのブログでやっていることなんかは由緒正しい、上下裃をつけて表彰状を何枚ももらえそうな「まごうことなき正義の塊」になりさうなものだが。違うか(笑)
嘘はよくないよ嘘はね。ただ、誰しも嘘はつく。そのつもりはなくとも結果的に嘘になってしまうこともある。
それと、はじめからテレビの視聴者を騙す目的で仕組まれた嘘は一緒にはできない。
なぜならそこには「金」であるとか「視聴率」とかが絡んでくるからだ。
まあだから(これはテレビに限らず)マスコミの振りかざす「正義」ぐらいあやふやなものはないと思えて仕方がないんだが。
2012.04.18
※ 「言いたいことがよくわかりません」というコメントが来ている。「辻希美の嘘は辻の嘘であると同時にテレビの嘘でもある」ということなんだが。
2012年4月16日月曜日
ハトは争いごとの象徴
鳩山元首相の動向についてのメールが何通か来ている。これに関するはなしから。
鳩山氏のイラン訪問に対して中止を求める声が続出、民主党閣僚も懸念
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120406-OYT1T00014.htm
「ルーピーのほうの鳩山がまた迷走中のようです」とのコメントが来ていてる。ほかにも鳩山由紀夫のイラン訪問に対して迷走という言葉を使っている方がいたりして、自分は「?」となった。
皆何か勘違いしてはいまいか。鳩山由紀夫という人が「迷走状態」なのはいわば常態で、我々が警戒しなければならないのは逆に迷走をしなくなった時の鳩山由紀夫の行動のほうである。
この「イラン訪問」がまさにそれだろう。
この人、本気で自分がイランに行けば世界平和に貢献できると固く信じ込んでいる。その上での訪問だから怖いのだ。
首相のときの「CO2(10年で)25%削減」との国連での表明であるとか、いわゆる沖縄米軍基地移転問題での「私には腹案がある」発言とその後の普天間移転問題の座礁であるとかもそうだが、この人が言行一致したときには、それは日本にとっての国難とは言わないまでも、相当に深いダメージをもたらしている。
何故かというと、この人の政治家人生の目的自体が「日本をという国のシステムをDRASTIC(急変的)に変えてしまうことだからだ。
だから彼は民主党という小規模政党を第二党から第一党にするために多額の金額をつぎ込み、小沢一郎とも手を組み、本来相容れないはずの民・民党(国民新党と社民党)と連立の「与党」まで画策をした。
で出来上がった「与党」を起動してみたら、それは動かない(動けない)ただの「フランケンシュタインのクリーチャー(モンスター)」みたいなことになってしまった。とそういうこと。
目的のためには手段を選ばないというのはあるだろう。それ自体は、まあある種の「言行一致」だろうからそれについてはあまり批判してもしかたがないような気がする 。
ただ、これは自分がここでいうまでもないことだが、鳩山由紀夫の目的としていることをそのまま我々日本人が日本語で、つまり「日本人の言葉」で耳にしたらそれは受け入れられるものではない。
例の「日本という国は日本人だけのものではない」もそうだし、「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」もまさに日本語では聞きたくない首相発言だろう。
重ね重ね言うが、これが政治家としてはともかく鳩山由紀夫という人間の本質から出た言葉なのである。失言でもなければ言葉足らずでもない。なんの比喩も用いてはいない。そもそもが鳩山由紀夫という人間がこのような思想の持ち主なのだ。
こういう人間が政治家をして、政党を立ち上げ、党を大きくして首相になったということなのだが。
順番を間違えてはいけないと思う。鳩山由紀夫が党首をしている党や候補者に対して票を入れた人間が多かったから、鳩山由紀夫は代議士でそして元首相なのだ。
じゃどうすればいいのかと問われそうだけれど、やはりそれは「誤った選挙」を正すのであればそれは「選挙」という方法しかありえないでしょう。
それとはまた別に私達が克目しなければならないことがあるとすると、当時の日本のマスコミ、特にテレビには「民主党」が自民党公明党(旧保守党もはいるが)の連合政権よりすばらしいものになると確信して発言していた「文化人コメンテーター」があふれかえっていたことだろう。
なにをどうすればいいのかといわれたら、それはもうそういう詐欺の片棒を担ぐようなことをしていたテレビ局に対して三行半をつきつけることなのではないのかな、と言行一致にこだわるわたしなどはいいたいのだけれども。
という前置きを踏まえてのわたしのこの件に関する意見は「まあ行きたければいけばいいじゃない。でも戻ってくるな」くらいになる。
こう見えても私は人の行動に対しては割りと寛容なつもりでいるんだけど、誰もそうは見てくれないんだ。何故だろう。
まあ「アンタは絶対ツイッターには手を出すな」という知り合いのアドバイスは、なんとなくわかっているつもりだけど。
鳩山氏のイラン訪問に対して中止を求める声が続出、民主党閣僚も懸念
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120406-OYT1T00014.htm
「ルーピーのほうの鳩山がまた迷走中のようです」とのコメントが来ていてる。ほかにも鳩山由紀夫のイラン訪問に対して迷走という言葉を使っている方がいたりして、自分は「?」となった。
皆何か勘違いしてはいまいか。鳩山由紀夫という人が「迷走状態」なのはいわば常態で、我々が警戒しなければならないのは逆に迷走をしなくなった時の鳩山由紀夫の行動のほうである。
この「イラン訪問」がまさにそれだろう。
この人、本気で自分がイランに行けば世界平和に貢献できると固く信じ込んでいる。その上での訪問だから怖いのだ。
首相のときの「CO2(10年で)25%削減」との国連での表明であるとか、いわゆる沖縄米軍基地移転問題での「私には腹案がある」発言とその後の普天間移転問題の座礁であるとかもそうだが、この人が言行一致したときには、それは日本にとっての国難とは言わないまでも、相当に深いダメージをもたらしている。
何故かというと、この人の政治家人生の目的自体が「日本をという国のシステムをDRASTIC(急変的)に変えてしまうことだからだ。
だから彼は民主党という小規模政党を第二党から第一党にするために多額の金額をつぎ込み、小沢一郎とも手を組み、本来相容れないはずの民・民党(国民新党と社民党)と連立の「与党」まで画策をした。
で出来上がった「与党」を起動してみたら、それは動かない(動けない)ただの「フランケンシュタインのクリーチャー(モンスター)」みたいなことになってしまった。とそういうこと。
目的のためには手段を選ばないというのはあるだろう。それ自体は、まあある種の「言行一致」だろうからそれについてはあまり批判してもしかたがないような気がする 。
ただ、これは自分がここでいうまでもないことだが、鳩山由紀夫の目的としていることをそのまま我々日本人が日本語で、つまり「日本人の言葉」で耳にしたらそれは受け入れられるものではない。
例の「日本という国は日本人だけのものではない」もそうだし、「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」もまさに日本語では聞きたくない首相発言だろう。
重ね重ね言うが、これが政治家としてはともかく鳩山由紀夫という人間の本質から出た言葉なのである。失言でもなければ言葉足らずでもない。なんの比喩も用いてはいない。そもそもが鳩山由紀夫という人間がこのような思想の持ち主なのだ。
こういう人間が政治家をして、政党を立ち上げ、党を大きくして首相になったということなのだが。
順番を間違えてはいけないと思う。鳩山由紀夫が党首をしている党や候補者に対して票を入れた人間が多かったから、鳩山由紀夫は代議士でそして元首相なのだ。
じゃどうすればいいのかと問われそうだけれど、やはりそれは「誤った選挙」を正すのであればそれは「選挙」という方法しかありえないでしょう。
それとはまた別に私達が克目しなければならないことがあるとすると、当時の日本のマスコミ、特にテレビには「民主党」が自民党公明党(旧保守党もはいるが)の連合政権よりすばらしいものになると確信して発言していた「文化人コメンテーター」があふれかえっていたことだろう。
なにをどうすればいいのかといわれたら、それはもうそういう詐欺の片棒を担ぐようなことをしていたテレビ局に対して三行半をつきつけることなのではないのかな、と言行一致にこだわるわたしなどはいいたいのだけれども。
という前置きを踏まえてのわたしのこの件に関する意見は「まあ行きたければいけばいいじゃない。でも戻ってくるな」くらいになる。
こう見えても私は人の行動に対しては割りと寛容なつもりでいるんだけど、誰もそうは見てくれないんだ。何故だろう。
まあ「アンタは絶対ツイッターには手を出すな」という知り合いのアドバイスは、なんとなくわかっているつもりだけど。
2012年3月25日日曜日
奇跡体験!アンビリバボー (3月22日)の嘘 インチキ デタラメ 03
前にもご紹介した「ひらかつ」さんのご協力で海外のサイトにあったこの22日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」のマヤ予言に関するパートを見ることができた。
決して褒められた行為ではないが背に腹は変えられない。向こうがどこまで本気なのかはよくわからないけれども、こちとらも必死というか真面目なのである。
しかし酷い内容だねこりゃ。前半の衝撃映像とか可愛い動物特集みたいなので押し通せばいいものを、この番組、ときどきこのようなカビの生えたような、つまりネタバレしたインチキオカルトに手を染めるから価値を数段落としている。
欠点のひとつが、こういう「インチキオカルト」で番組を締めるものだから、最後に登場するビートたけしが只のピエロ、つまり馬鹿野郎にしか見えなくなるんだが番組としてもそれでいいということなのだろうか?
自覚はあまりなかったのだが、このブログ活動のお陰で日本で有数の「マヤ予言のオーソリティー」になってしまった自分から見て(笑)このパート約30分の中には看過できない嘘・インチキ・ハッタリがテンコ盛りであった。
いやマジでさ。本気になればこの番組のネタだけで、自分ブログ記事20本は書けますもん。やらないけどさ。
でも、どんなに要領良くまとめても10本以下にはできないだろうね。こまったもんである。いまのうちから胃薬のストック買いに行って来ようかと。
まずは小ネタというか「お笑いポイント」の追加を。
最初メールでこのこと知ったときには「嘘だろ」と思った。唖然とした。
「いくらなんでもそれは…」である。
それはこのシーン。
番組の取材班がメキシコを訪れてマヤの子孫と会うというシーンである。
彼らのほうから、伝統の『火の儀式』を執り行っている最中のところにに来てくれなんていうはずもないので、これは演出だろう。
インパクトのある絵(シーン)が欲しくて取材陣がマヤの子孫だという人たちにお願いしたのでこうなったとのだと思う。
まあこれも問題といえば問題だが、その直後そんなことなんかぶっとんでしまうようなとんでもないシーンが流れるのである!(陳腐なバラエティ番組ならばここでCMが入るだろう)
さてその問題のシーンだが、この『火の儀式』のシーンのビデオを見ていたスタジオの面々の中にいた作家の荒俣宏がなんと「マヤ語を使っている」と断言したのだ。
すげぇ。荒俣さんは耳で聞いてその謎の言語が「マヤ語」ってわかるんだ。
それこそジュセリーノ並みの語学の天才設定ってことになるのか、この番組的には。
断言するが、マヤ語なんて日本人が勉強して身に付くようなものでは決してないぞ。
そもそも「マヤ語」というが、大きく地域分類して五つの体系、細かく別けると20以上30近くの部族語にも分かれているものを総称したのが「マヤ語」だからだ。
ビデオで流されている音声を聞き分けてそれが「マヤ語である」とか断定できる人は本国メキシコ・グアテマラ合せても1万人もいないだろう。(註)
誰だよこんな子供騙しみたいな台本書いたやつは。もう信じられねぇようなミスだな。シロートかって。おまえら揃いも揃ってなにバカなことやってんだよ。
というか荒俣さんもそんな簡単なことに気がつかなかったのかね。自分の口にしたセリフが実に胡散臭いものであることに。
まあ普通の視聴者ならばこういうシーンは笑うのが正しいんだろう。基本この番組、笑ってナンボのお笑い番組だもの。テレビから腹の底から笑える「お笑い」が減った今、大作家の荒俣宏がわが身を削って渾身のプラクティカルギャグを放ったと思えばいいんじゃないのかと。
しかし自分は笑えないね。こういうのは。見ていて頭を抱えたくなる気持ちのほうが強い。だって恥ずかしいじゃない。
[註]すべてのマヤ部族の話語を理解できる人間は皆無だと言われている。
[追加]
新記事に付け加えようかと思っていたが、次の次の記事ぐらいまですでにぎっしり書くことが詰まっている状態なので追加で書いておきます。
まず自分のことを「マヤ予言のオーソリティー」だとか書いたのはもちろんジョークとしてで、本気でそんなことを思っていたりするわけではない。一ミリも。
ただ、前の記事、検索のことについて書いたときには触れられなかったが、普通の人がネットで「マヤ予言」が本当に本当の人類滅亡の予言なのかとか調べようとして「マヤ予言 真実」というようなキーワードで検索をしたりすると、トップに出て来るのがこのブログだったりするものだからだろう、私のことをマヤ予言の専門家と思いこんでメールとかしてくる人が結構いたようだ。残念なことだが。
何が残念かというと、そういった質問のメールに返事を出したりすると、必ずといって皆が「はじめてこのようなちゃんとした返答を頂きました」というような謝辞が返ってくるからだ。
つまりは、ほかにこのようなテレビでやるインチキオカルトに対してひと言「あれは嘘」とはっきりと言い切る人がいないということなのだろう。それが残念なのである。
大作家荒俣宏の「マヤ語を使っている」というセリフのことについて「よく気づきましたね目からウロコでした」というようなコメントが何通も来ている。
まあ書いたとおりで最初に気づいたのは自分ではない。なにしろ自分はそのメールが来た時点では番組(の録画)は見ていなかったのだから。
しかし、おそらく放送を同時間ナマで見ていたとしても、自分もすぐに気づいただろうと思う。
何故かというと、こちらで時折メールを紹介している中米系の女性もまたマヤの血を1/16だったか引いているというマヤの子孫の方で、彼女が「自分もマヤ語はひとつもわかりませんし(マヤ古代)文字も全然読めません」と書いてきていたのを記憶していたからだ。
決して彼女が特別なのではない。グアテマラ、ベリーズ在住のアウターチルドレン(外孫?)でもない限りマヤ語など使う必要はないし、もちろん教育システムもないという。
ビデオの中で儀式の男が口にしている謎の言語を「マヤ語を使っている」と断言してしまった作家にして語学の超天才の荒俣宏…、この代償は高く付くような気がしてならない。予言をするつもりはさらさらないが。
またこの発言について「あれはその直前の関根勤の『マヤ語使ってんのかな?』という(スタジオでの)発言を継いだだけでしょう。特に問題はないのでは…」というコメントが来ている。
いや、そうだけどね、そうなんだけどね。
だから自分は『誰だこの台本を書いたのは』とこんなトークの流れにしてしまった作家の責任だとしているのだが。
作家だけじゃないよな。この番組は生じゃないのだから、編集の段階で立ち会ったスタッフの誰かは気づいてこの荒俣発言を消すことだってできたはずなのである。
あくまでも気づけば、だが。というか普通気づいてこの部分、音声消すでしょう。だから、オマエら揃いも揃って何やってんのよと言ってるんだけど。
次の記事
決して褒められた行為ではないが背に腹は変えられない。向こうがどこまで本気なのかはよくわからないけれども、こちとらも必死というか真面目なのである。
しかし酷い内容だねこりゃ。前半の衝撃映像とか可愛い動物特集みたいなので押し通せばいいものを、この番組、ときどきこのようなカビの生えたような、つまりネタバレしたインチキオカルトに手を染めるから価値を数段落としている。
欠点のひとつが、こういう「インチキオカルト」で番組を締めるものだから、最後に登場するビートたけしが只のピエロ、つまり馬鹿野郎にしか見えなくなるんだが番組としてもそれでいいということなのだろうか?
自覚はあまりなかったのだが、このブログ活動のお陰で日本で有数の「マヤ予言のオーソリティー」になってしまった自分から見て(笑)このパート約30分の中には看過できない嘘・インチキ・ハッタリがテンコ盛りであった。
いやマジでさ。本気になればこの番組のネタだけで、自分ブログ記事20本は書けますもん。やらないけどさ。
でも、どんなに要領良くまとめても10本以下にはできないだろうね。こまったもんである。いまのうちから胃薬のストック買いに行って来ようかと。
まずは小ネタというか「お笑いポイント」の追加を。
最初メールでこのこと知ったときには「嘘だろ」と思った。唖然とした。
「いくらなんでもそれは…」である。
それはこのシーン。
番組の取材班がメキシコを訪れてマヤの子孫と会うというシーンである。
彼らのほうから、伝統の『火の儀式』を執り行っている最中のところにに来てくれなんていうはずもないので、これは演出だろう。
インパクトのある絵(シーン)が欲しくて取材陣がマヤの子孫だという人たちにお願いしたのでこうなったとのだと思う。
まあこれも問題といえば問題だが、その直後そんなことなんかぶっとんでしまうようなとんでもないシーンが流れるのである!(陳腐なバラエティ番組ならばここでCMが入るだろう)
さてその問題のシーンだが、この『火の儀式』のシーンのビデオを見ていたスタジオの面々の中にいた作家の荒俣宏がなんと「マヤ語を使っている」と断言したのだ。
すげぇ。荒俣さんは耳で聞いてその謎の言語が「マヤ語」ってわかるんだ。
それこそジュセリーノ並みの語学の天才設定ってことになるのか、この番組的には。
断言するが、マヤ語なんて日本人が勉強して身に付くようなものでは決してないぞ。
そもそも「マヤ語」というが、大きく地域分類して五つの体系、細かく別けると20以上30近くの部族語にも分かれているものを総称したのが「マヤ語」だからだ。
ビデオで流されている音声を聞き分けてそれが「マヤ語である」とか断定できる人は本国メキシコ・グアテマラ合せても1万人もいないだろう。(註)
誰だよこんな子供騙しみたいな台本書いたやつは。もう信じられねぇようなミスだな。シロートかって。おまえら揃いも揃ってなにバカなことやってんだよ。
というか荒俣さんもそんな簡単なことに気がつかなかったのかね。自分の口にしたセリフが実に胡散臭いものであることに。
まあ普通の視聴者ならばこういうシーンは笑うのが正しいんだろう。基本この番組、笑ってナンボのお笑い番組だもの。テレビから腹の底から笑える「お笑い」が減った今、大作家の荒俣宏がわが身を削って渾身のプラクティカルギャグを放ったと思えばいいんじゃないのかと。
しかし自分は笑えないね。こういうのは。見ていて頭を抱えたくなる気持ちのほうが強い。だって恥ずかしいじゃない。
[註]すべてのマヤ部族の話語を理解できる人間は皆無だと言われている。
[追加]
新記事に付け加えようかと思っていたが、次の次の記事ぐらいまですでにぎっしり書くことが詰まっている状態なので追加で書いておきます。
まず自分のことを「マヤ予言のオーソリティー」だとか書いたのはもちろんジョークとしてで、本気でそんなことを思っていたりするわけではない。一ミリも。
ただ、前の記事、検索のことについて書いたときには触れられなかったが、普通の人がネットで「マヤ予言」が本当に本当の人類滅亡の予言なのかとか調べようとして「マヤ予言 真実」というようなキーワードで検索をしたりすると、トップに出て来るのがこのブログだったりするものだからだろう、私のことをマヤ予言の専門家と思いこんでメールとかしてくる人が結構いたようだ。残念なことだが。
何が残念かというと、そういった質問のメールに返事を出したりすると、必ずといって皆が「はじめてこのようなちゃんとした返答を頂きました」というような謝辞が返ってくるからだ。
つまりは、ほかにこのようなテレビでやるインチキオカルトに対してひと言「あれは嘘」とはっきりと言い切る人がいないということなのだろう。それが残念なのである。
大作家荒俣宏の「マヤ語を使っている」というセリフのことについて「よく気づきましたね目からウロコでした」というようなコメントが何通も来ている。
まあ書いたとおりで最初に気づいたのは自分ではない。なにしろ自分はそのメールが来た時点では番組(の録画)は見ていなかったのだから。
しかし、おそらく放送を同時間ナマで見ていたとしても、自分もすぐに気づいただろうと思う。
何故かというと、こちらで時折メールを紹介している中米系の女性もまたマヤの血を1/16だったか引いているというマヤの子孫の方で、彼女が「自分もマヤ語はひとつもわかりませんし(マヤ古代)文字も全然読めません」と書いてきていたのを記憶していたからだ。
決して彼女が特別なのではない。グアテマラ、ベリーズ在住のアウターチルドレン(外孫?)でもない限りマヤ語など使う必要はないし、もちろん教育システムもないという。
ビデオの中で儀式の男が口にしている謎の言語を「マヤ語を使っている」と断言してしまった作家にして語学の超天才の荒俣宏…、この代償は高く付くような気がしてならない。予言をするつもりはさらさらないが。
またこの発言について「あれはその直前の関根勤の『マヤ語使ってんのかな?』という(スタジオでの)発言を継いだだけでしょう。特に問題はないのでは…」というコメントが来ている。
いや、そうだけどね、そうなんだけどね。
だから自分は『誰だこの台本を書いたのは』とこんなトークの流れにしてしまった作家の責任だとしているのだが。
作家だけじゃないよな。この番組は生じゃないのだから、編集の段階で立ち会ったスタッフの誰かは気づいてこの荒俣発言を消すことだってできたはずなのである。
あくまでも気づけば、だが。というか普通気づいてこの部分、音声消すでしょう。だから、オマエら揃いも揃って何やってんのよと言ってるんだけど。
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2012年3月24日土曜日
奇跡体験!アンビリバボー (3月22日)の嘘 インチキ デタラメ 02
案の定というのか、例によって放送日を過ぎてからメールの数が増えてきた。
昨日10数通だったメールが今日は今のところ29通(23日23時現在)
流石というのかなんというのか、常連の皆さんはこの22日放送のアンビリバボーの内容については非常に冷笑的というか、まあはっきりいって小馬鹿にしたものが目立つ。
まずは小さなネタから
某常連の方(匿名希望)からいきなり爆笑モノが来たって感じです。
「番組の中に『宇宙線(放射線)の量が増えると宇宙服を着ていない宇宙飛行士は被曝して死に至るという』というナレがあったので家族で大笑いになりました。完全なこれは構成作家のポカですね」というもの。
宇宙服を着ないで船外活動したら被曝もなにも関係なくそりゃ死にますがな。なぜちゃんとここは「宇宙服」でなく「宇宙線対策を施した船内服」といえなかったのだろうか。
次
「作家の荒俣さんが古代サッカー場」に行ったときのことを語ってました。画面にも『古代サッカー場』のテロップが。(追加 画像あり)
マジですかい(笑)もしこれが事実なら、つまりマヤ文明時代にサッカーがあったならば、それこそ歴史的な大発見になるだろうな。サッカーの母国をイングランドからメキシコ(グアテマラとかペルーか)にしなければならないくらいの大発見だもの。
もちろん現地の観光ガイドが外国人観光客のためにわかりやすく「サッカー」という言葉を使って説明をしたということなんだろうが、何も日本でやるテレビ番組がそれら引きずられて「古代サッカー場」なんて表現する必要ないだろう。ウィキペディアみたいに「古代球技場」という表現を使えばいいだけだもの。
というか荒俣さん、本当に自分の体験を語ったのかな?むしろそこが疑問。
なにしろ現地にいけばその「球技」で使われている球がなんであるかぐらいの説明はうけるはずだからだ。もしそれを(自らの見聞として)知っていて「サッカー」という表現にこだわったのならば、それはサッカーという競技のことをよく知らないか、でなければサッカーという競技を貶めようという意図があるんじゃないかと疑われるだけですがね。
ほかにも、このような思わず笑ってしまうような番組の粗い出来上がりから生じたお笑いポイントをいくつか頂戴している。
全部挙げてもいいのだけれども、なにしろ自分はまだこの番組を見ていないので。
その面白さを番組の内容を掴んだ上で伝えきれない現状が申し訳ないところでもある。
それよりもなによりも、この番組の問題点は彼らが「マヤの人類滅亡予言」が実はただのニセモノで、マヤ暦は人類滅亡を予言したものではないことを知っていながらあのような内容にしてしまったことだろう。
それは果たして取材を受けたマヤの子孫の人たちの協力というものを無為にしてはいまいか。彼らの名誉や真摯な取材態度というものを傷つけてはいないのだろうか。
私はこういうところを思うので、このような番組の存在自体が許せないという立場を取る。
[追加]
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昨日10数通だったメールが今日は今のところ29通(23日23時現在)
流石というのかなんというのか、常連の皆さんはこの22日放送のアンビリバボーの内容については非常に冷笑的というか、まあはっきりいって小馬鹿にしたものが目立つ。
まずは小さなネタから
某常連の方(匿名希望)からいきなり爆笑モノが来たって感じです。
「番組の中に『宇宙線(放射線)の量が増えると宇宙服を着ていない宇宙飛行士は被曝して死に至るという』というナレがあったので家族で大笑いになりました。完全なこれは構成作家のポカですね」というもの。
宇宙服を着ないで船外活動したら被曝もなにも関係なくそりゃ死にますがな。なぜちゃんとここは「宇宙服」でなく「宇宙線対策を施した船内服」といえなかったのだろうか。
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「作家の荒俣さんが古代サッカー場」に行ったときのことを語ってました。画面にも『古代サッカー場』のテロップが。(追加 画像あり)
マジですかい(笑)もしこれが事実なら、つまりマヤ文明時代にサッカーがあったならば、それこそ歴史的な大発見になるだろうな。サッカーの母国をイングランドからメキシコ(グアテマラとかペルーか)にしなければならないくらいの大発見だもの。
もちろん現地の観光ガイドが外国人観光客のためにわかりやすく「サッカー」という言葉を使って説明をしたということなんだろうが、何も日本でやるテレビ番組がそれら引きずられて「古代サッカー場」なんて表現する必要ないだろう。ウィキペディアみたいに「古代球技場」という表現を使えばいいだけだもの。
というか荒俣さん、本当に自分の体験を語ったのかな?むしろそこが疑問。
なにしろ現地にいけばその「球技」で使われている球がなんであるかぐらいの説明はうけるはずだからだ。もしそれを(自らの見聞として)知っていて「サッカー」という表現にこだわったのならば、それはサッカーという競技のことをよく知らないか、でなければサッカーという競技を貶めようという意図があるんじゃないかと疑われるだけですがね。
ほかにも、このような思わず笑ってしまうような番組の粗い出来上がりから生じたお笑いポイントをいくつか頂戴している。
全部挙げてもいいのだけれども、なにしろ自分はまだこの番組を見ていないので。
その面白さを番組の内容を掴んだ上で伝えきれない現状が申し訳ないところでもある。
それよりもなによりも、この番組の問題点は彼らが「マヤの人類滅亡予言」が実はただのニセモノで、マヤ暦は人類滅亡を予言したものではないことを知っていながらあのような内容にしてしまったことだろう。
それは果たして取材を受けたマヤの子孫の人たちの協力というものを無為にしてはいまいか。彼らの名誉や真摯な取材態度というものを傷つけてはいないのだろうか。
私はこういうところを思うので、このような番組の存在自体が許せないという立場を取る。
[追加]
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2012年3月23日金曜日
奇跡体験!アンビリバボー (3月22日)の嘘 インチキ デタラメ
とりあえずこれをご覧下さい
101014 テレビでやっていた「マヤの予言」の嘘について
暗鬱である。この記事を掲げるのを1日伸ばそうかとも思った。まだ番組そのものは見ていないが、常連投稿の方々からの綿密なレポートのメールでだいたいのところはわかった。
メール多数。コメント30数通。まあこれは今でもときどきあることだけれども、アクセス数が5000を越えたり訪問者数が1500を越すというのはもう実に久しぶりのことで、これまた久しぶりに忘れていた胃痛に見舞われてしまった。
聞けば、どこの検索サイトでも「マヤ予言 真実」というキーワードで検索をするとトップに来るのがこのブログの記事らしいし。[註]
うっかりしていた。そういえば年度末なのでこの「アンビリバボー」で昨年放送予定しながらも取りやめたという「マヤ予言」を放送する可能性があったということを忘れていた。[註]
繰り返しになるが、この番組(にしても今まであったマヤ予言を人類滅亡の予言だとして取り上げた番組全て)が尊大で尚且つ犯罪的な行為なのは、マヤ民族の文化伝統というものを正しく伝えずに勝手に曲解して「人類は滅亡するのだ!」みたいなどうしようもないものにしてしまうことである。
こういうのを他国文化に対する屈辱行為というのだが、このようなテレビ番組を作っている当事者たちにはそういう意識はないのだろうなきっと。
自分は同じ日本人としてそれが恥ずかしくてしかたがない。
こういうことである。
マヤ文明を持ち上げてみせ、「マヤ文明は天文学が発達していた」「だからマヤの2012年人類の予言は信憑性があるのだ」というのでは、ひっくり返していうと、2012年に人類が滅亡しなかったらマヤの文明はたいしたものではない、という考え方を産むことになるからだ。
この手のオカルト番組というのは、そういう価値観を持った人間たちが作ってそして放送しているのだという悲しい事実である。
以前、メールで「こういうクソみたいなテレビ番組を作っている連中の全てが実は日本人ではないであるとか、あるいはどこかの反日本的価値観で凝り固まった某国の手先なのだというような夢想に浸ることがあります」というようなことをどなたかが書いてきたのだけれど、今の自分ならば同意してしまいそうである。
さて、上で書いたとおりで、自分はまだこの番組(録画)は見ていない。
だが、実はその昨年末に放送予定だったものの内容はある程度までは掴んでいた。
多少のモデファイは施されていたようだが基本は昨年頂戴したメールでリークされていたものそのままだといっていい。
なにしろ出演者が番組で口にしたというセリフがそっくりそのまま残っていたりするからだ。
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111125 自分が暗鬱になる理由 その1
元の記事(livedoor blog)
2012年3月16日金曜日
喉元過ぎれば…の見本のような日本のテレビ報道
とりあえずこちらに書きはじめるとする。
最近腹の立つことばかり立て続けに起きている。
そのひとつひとつを。
まず、3月11日 東日本大震災から丸一年ということで、テレビ各局でオンエアされた特別番組がどれもこれもひどいものだったこと。
見ないで済むのならばそれにこしたことはないとタカを括っていた。しかし世の中そう上手くはゆかないもので。
特に(やっぱり)フジテレビのがひどかったな。名前は出したくないが、福島を縦断した女性キャスターの勘違いぶりにはあきれてものが言えなかった。キャスターは事実を事実として視聴者に伝えるのが使命のはずだが。
次、3月14日、つまり一昨日の水曜日、三陸沖と千葉沖を震源とするふたつの大きな地震があまりあいだをおかずに発生した。(18時9分と21時5分)
三陸沖が震源の地震のその最中、自分は東京の知り合いと電話の最中だった。つまり、6時少し過ぎということになるが。向こうからは「一旦切るね」と言われた。そののち向こうから電話がかかってきたのだけれど(今度は7時過ぎということになる)
彼女もあきれ返っていたのが、これまたフジテレビだった。
地震直後から津波注意報が発令されていたにも関わらず、フジテレビでは特別報道体制を敷かずに、そのまま「電動アシスト自転車特集」であるとか「若手女お笑い芸人による節約術」を延々と流していたというからだ。
聞けば全民放(テレ東は除く)がすでに特別報道体制に移行しているのにである。
フジテレビが同じニュース枠で、この三陸沖で起きた地震と津波注意報について触れたのは地震発生後40分近く過ぎた6時50分ごろ。
その女性キャスターは、そのニュース番組の中で「つい先ほど」を繰り返していたという。(それは自分も確認した)
いや何がすごいといって、30分も前に起きた大きな地震と直後に発令された津波注意報や警報から30分を過ぎてから「ついさっき」と言い切るその欺瞞に対しては驚くを通り越してあきれ返る。
これ、思い返してほしい。大切なことだ。
東日本大震災では、地震から30分後に津波が到達していた地区があったということだ。
つまり地震後、津波警報・注意報が出て30分も放置しているというのは「報道」として重要な何かが抜け落ちているということ。
極端に言えば「津波の危機に晒されている人たち」を見殺しにするのと同じ行為なのだが。彼らはそういうことは少しも考えなかったのだろうか。
電話の相手の彼女は、この女性キャスターのことを非常に腹ただしく感じたという。「少なくともこういうニュースの顔じゃないよ」と言っていた。
彼女たちとこのフジの番組を一緒に見ていたひとから「このババアしねや!」みたいな怒声が出たことに彼女もある種の恐怖を感じたという。もう少し言うと、つまりは少しばかりの同意を感じた自分が怖かったそうだ。
自分としては、ただこのような報道を抱える局のエリア視聴者でないことに少しばかりの「安堵ー」を感じるだけであるが。
そして、話はそのわずか三日前に放送された、その「震災特別番組」に戻る。あの番組の空虚さというものが何に起因しているのかその最大の理由をしみじみと実感したわけだ。
あんなお泪頂戴プログラムを流すより先にやることがあるだろう。テレビ局ならば。
それは一にも二にも、緊急時には速やかに放送内容を変更できるなどフレキシブルな対応システムの構築だろう。それが出来ていないということが露呈したのだともいえるだろうが。
こういうのはネットのキー局としては致命的な欠陥以外の何物でもない。
悪いことはいわねぇ仙台放送よ、いざとなったら勝手に全国ネット放送から切り替えて独自判断で緊急報道体制に変えることができる権限だけは確立してはくれないだろうか。同じフジ系列というだけで不安でしかたがないからだ。
2012.03.16
最近腹の立つことばかり立て続けに起きている。
そのひとつひとつを。
まず、3月11日 東日本大震災から丸一年ということで、テレビ各局でオンエアされた特別番組がどれもこれもひどいものだったこと。
見ないで済むのならばそれにこしたことはないとタカを括っていた。しかし世の中そう上手くはゆかないもので。
特に(やっぱり)フジテレビのがひどかったな。名前は出したくないが、福島を縦断した女性キャスターの勘違いぶりにはあきれてものが言えなかった。キャスターは事実を事実として視聴者に伝えるのが使命のはずだが。
次、3月14日、つまり一昨日の水曜日、三陸沖と千葉沖を震源とするふたつの大きな地震があまりあいだをおかずに発生した。(18時9分と21時5分)
三陸沖が震源の地震のその最中、自分は東京の知り合いと電話の最中だった。つまり、6時少し過ぎということになるが。向こうからは「一旦切るね」と言われた。そののち向こうから電話がかかってきたのだけれど(今度は7時過ぎということになる)
彼女もあきれ返っていたのが、これまたフジテレビだった。
地震直後から津波注意報が発令されていたにも関わらず、フジテレビでは特別報道体制を敷かずに、そのまま「電動アシスト自転車特集」であるとか「若手女お笑い芸人による節約術」を延々と流していたというからだ。
聞けば全民放(テレ東は除く)がすでに特別報道体制に移行しているのにである。
フジテレビが同じニュース枠で、この三陸沖で起きた地震と津波注意報について触れたのは地震発生後40分近く過ぎた6時50分ごろ。
その女性キャスターは、そのニュース番組の中で「つい先ほど」を繰り返していたという。(それは自分も確認した)
いや何がすごいといって、30分も前に起きた大きな地震と直後に発令された津波注意報や警報から30分を過ぎてから「ついさっき」と言い切るその欺瞞に対しては驚くを通り越してあきれ返る。
これ、思い返してほしい。大切なことだ。
東日本大震災では、地震から30分後に津波が到達していた地区があったということだ。
つまり地震後、津波警報・注意報が出て30分も放置しているというのは「報道」として重要な何かが抜け落ちているということ。
極端に言えば「津波の危機に晒されている人たち」を見殺しにするのと同じ行為なのだが。彼らはそういうことは少しも考えなかったのだろうか。
電話の相手の彼女は、この女性キャスターのことを非常に腹ただしく感じたという。「少なくともこういうニュースの顔じゃないよ」と言っていた。
彼女たちとこのフジの番組を一緒に見ていたひとから「このババアしねや!」みたいな怒声が出たことに彼女もある種の恐怖を感じたという。もう少し言うと、つまりは少しばかりの同意を感じた自分が怖かったそうだ。
自分としては、ただこのような報道を抱える局のエリア視聴者でないことに少しばかりの「安堵ー」を感じるだけであるが。
そして、話はそのわずか三日前に放送された、その「震災特別番組」に戻る。あの番組の空虚さというものが何に起因しているのかその最大の理由をしみじみと実感したわけだ。
あんなお泪頂戴プログラムを流すより先にやることがあるだろう。テレビ局ならば。
それは一にも二にも、緊急時には速やかに放送内容を変更できるなどフレキシブルな対応システムの構築だろう。それが出来ていないということが露呈したのだともいえるだろうが。
こういうのはネットのキー局としては致命的な欠陥以外の何物でもない。
悪いことはいわねぇ仙台放送よ、いざとなったら勝手に全国ネット放送から切り替えて独自判断で緊急報道体制に変えることができる権限だけは確立してはくれないだろうか。同じフジ系列というだけで不安でしかたがないからだ。
2012.03.16
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