2007年3月28日水曜日

TBSの地震報道から見えてくるこの局の体質

3月25日に起きた能登半島大地震のテレビ報道に関する文章である。

事実なのでこれだけはまずはっきりとここで書いておくが、今回の地震で死者が出たということを一番早く報道したテレビ局はTBSだった。褒めているのではない。その逆だ。

TBSのテレビは臨時ニュースの中で「死者が出た」とだけ伝え、それが「どこで、誰が、何故」ということはまったく伝えずにただひたすら「死者が出た」とのみ繰り返していたのだ。

自分は輪島市の近くに知り合いがいる。羽咋にもいる。なものでこのニュースを耳にして急激に不安感を増してしまったのだ。

それでも心の奥底では「まあ、TBSだからあてにはならない」とか思っていたのも事実なのであるが。

おそらくは、まず間違いなく自分と同じように、石川県に知り合いがいるという人で、このTBSのニュースを見て不安になった人は多いはずだと思う。

その後、(確かNHKだったと思うが)別の局のニュースでその犠牲者が50代の女性で自宅の庭で倒れた石灯篭の下敷きになって死亡したという詳細を知り(不謹慎だとはわかっていてこんな言い方をするのだが)自分の知り合いでないことを知りほっと胸をなでおろした。

だが、その時刻TBSテレビの臨時報道番組は未だに「死者が出た」とばかり繰り返してして、その犠牲者の詳細については何も伝えてはいなかったのである。

どうやらこのテレビ局にとって大切なことは「死者が出た」ということで不安を撒き散らすこと、そのことで視聴者を釘付けにすることのほうらしい。たまたまそうなったのではなく確信してやっているようなのだ。

自分が「まあTBSのことだからあてにならない」と思ったのも、整形外科医の長女が誘拐されたときの事件報道のあり方であるとか、ここの局の捏造体質というものをよく知ってていたからだが。


あと、これは笑い話にしていいものなのかは微妙なところなのだが、

地震直後の被害の映像として、系列地方局の資料室の床に8センチCDが大量に飛び散っているところを何度も何度も繰り返し使用しているのには苦笑してしまった。
床に散乱しているのが8センチCDだけというところが笑いのツボなのである。

その映像で何を伝えたいのかがよくわからなくなっていたからだ。
これでは地震による被害の生々しさ、大きさを伝えるというよりも、別の事実しか伝わってこない映像になってしまっている。

8センチに限らず大量のCDを所有している自分は、この映像を見て、「手前の系列局でのCDの扱い方の不手際を全国にぶちまけてどうするんだろう」という苦笑になったのだ。

8センチCD、昔はシングルCD(今では12センチサイズのものが主流になったためにこういう言い方は通用しなくなった)とも言ったが、今では演歌系のものしか見かけなくなってしまった。何故廃れたかというと、生産と流通のコストが見合わなくなったからだ。店側でもこういうシングルCDの専用什器(陳列棚)はどんどん置かなくなってきている。

一昨年の夏、宮城で震度5の地震があったとき、自分のCD、ミュージックカセット、ビデオ、本の入った棚や保管箱はビクともせずに中身が崩れ落ちたりということはまったくなかった。

それなりに気をつかった保管をしているからだ。

8センチCDはすべて縦に並べて、タイトルとアーチスト名が書かれている辺を上向きに揃えてCDと同じ大きさ(高さだけがやや高い)の箱に入れている。

箱(自分はごく普通のダンボール箱を使っている)の仕切りと底敷の厚みで調整して箱と同じ高さ大きさに詰め込めば結構な数を積み重ねても決して箱が潰れたりはしないものなのだ。というかそもそも8センチCDはそういう形で保管なり流通されることを前提にしている。それ以外の方法だと、大量に積み上げたりすれば崩れたり折れたり、あるいは変形するのがむしろ当たり前のことなのだ。

仮にも「資料室」と名乗るくらいならばせめてそれくらいのことはしてほしいと思ったね。

まあ、CDの件はこれくらいにするが。

さて、本題に戻る。それにしても、いまでもその特別報道番組でニュース原稿を読んでいた女子アナのことを思い出すたびに腹が立ってくるのである。「死者がでました」ということばかりを強調して繰り返してこちらの不安だけを煽ってくれたからだ。

決して彼女の責任でないことは頭ではわかっているのだが。一度植え付けられた悪感情というものはなかなか消えはしないものだということだ。

さて、不安を煽るといえば、今だにブログなどでジュセリーノの予言とこの能登の地震について関連づけてああだこうだと書いている人は多いようだ。

繰り返し言うが、今回の能登の地震とジュセリーノの予言とはまったく関係がない。

「日本のどこかで」と書いていればそう見えてしまう=当ったかのように見える、というだけだ。

その他の部分ですでにジュセリーノは幾つも予言はハズレている。これこそが事実というものだ。

そして「テレビ朝日」と「たま出版」にはその不安を煽ってきた責任がある。この重要な事実を隠したままだからだ。

どう言い訳をしようとも、こいつら(テレ朝+たま出版)が金(視聴率とか本の売れ行き)のためにジュセリーノの予言を利用したことだけは決して忘れてはいけないと思う。

まあ「たま出版」は置いとくとして、テレビ朝日の罪は重い。テレビ朝日というテレビ局でありれっきとしたマスコミだからである。

マスコミが不安を煽るためのものであっては決していいわけがないだろうということを改めてここで言っておく。

それともそれがテレビ朝日の目的なのか?


※追記
ジュセリーノの予言とは直接は関係のない文章ではあるが、もともとこのブログではこういうことを書いてきたわけで、自分としてはこのことだけは抜かしたり書かないでいたりすることは出来ないという強い動機があって記事にした。

実は3月分で一番反響があったのはこの記事であった。
逆にこの記事を読んで「ジュセリーノの予言」なるものを知ってしまったという人も出てしまったようだった。そうなると逆効果だったともいえる。

いや、はじめから「偽の予言」という形で「ジュセリーノ」のことを認識してもらうことが出来たということも出来るわけでそうなると正直微妙な感じがした。

それと、「正しい8センチCDの保管方法」について感心されたり、逆に「それでは間違っている。本当に正しいシングル8センチCDの保管方法は…」とかそっち方面の反響も多かったということを付け加えておきます。

それでも、今でもあの女子アナのNYの顔を見ると、やはりあの時のことがフィードバックして怒りがよみがえってくるのには我ながら困ったものである。繰り返して強調するが、けっして彼女のせいではないということは頭で理解はしているのだよ。
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(初出)2007.03.28「これもまた人生の一日」(ライブドアブログ)

2007年3月5日月曜日

霊感商法を助長しているテレビ局

重要なニュースが我々のところに飛び込んで来た。
まるで矢追純一の番組みたいだが。


超能力や心霊現象を取り上げたテレビ番組が霊感商法による被害への素地になっている危険性があるとして、全国霊感商法対策弁護士連絡会は、民放連とNHKなどに番組内容の見直しなどを求める要望書を提出した。

同連絡会によると、05年に連絡会や消費者センターに寄せられた霊感商法の被害は約1000件、総額約28億円。多くは統一教会がらみの相談という。

要望書では、この数年、「霊能師」が霊界やオーラを見えると断言したり、タレントの未来を断定的に予言したりし、出演者が信じているような番組が目立ってきた、と指摘。
番組の社会的影響に注意を払い、行き過ぎを是正してもらいたい、などと求めた。


朝日新聞.comの記事http://www.asahi.com/culture/update/0304/012.html?ref=rss

このブログでもずっと書いてきたことだが、最近の民放のテレビ番組には、そのジャンル分けが難しくなっているものが多い。そういうものをとりあえずテレビ局は「バラエティ番組」と名付けることで他の報道番組や生活情報番組とは区別はしているのだが、おそらくは、製作しているスタッフ本人達も自分らが作って放送されているものがいったいいかほどのものなのかという意識なんてこれっぽっちももってはいないであろうということはその番組の最初から最後までしっかりと見ていればなんとなくだがわかる。

今更だが、実は自分はテレビでオカルトを扱うことにはさほど反対はしていない。ただその取り扱いには充分な注意を払えよ、ということだけは常々書いているだけで。

いや書くだけではない。TBSとテレビ朝日に対してはそのことで何度も注意を促す電話やメールをしているくらいだ。きっとTBSでは自分の名前とメアドと電話番号は常連クレーマー扱いになっているのではないだろうか。まあいいけど。

この記事が差していると思われる細木和子と江原啓之のレギュラー番組についてはほとんど見ていない。見ていないで批判を加えるのもどうかとは思うのだが、見ても仕方がないということと番組終わりの部分だけ見れば批判には充分だと思っているからだ。

というのも、このテレビ局に電話をすると、必ず彼等が口にする言い訳が「あの番組はバラエティ」なのである。もう随分と前からこの言い訳を聞かされてきた。

そのたびに「だったら番組の終わりに必ずこの番組がバラエティであって、内容にフィクションがあるということを断わるテロップを出しなさい」と言っているのだ。

守られたためしはないだろうが。一応言っておくだけは言っておかないとという立場の表明である。JORAにも一応通報はした。嘘が多いのは誰の目に見ても明らかなことだし。

自分でも「必死だな、プ」と嘲りたくなるくらいの偏執ぶりである。

というか、こういうこと、後から気づいたときにはもう手遅れなのだ。特にTBS、オウム事件で自分らが何を失ったのか、もう忘れてしまったのだろうか?10年前とまったく同じような事を繰り返しているのにだ。

占いだとか前世というのは、言ってしまえばカイロで感じる暖かさと同じようなものだ。一箇所だけ暖める事で他の大部分が冷え切っているということを忘れさせてくれるという意味でだ。

たった一箇所が(偶然なのかどうかはわからないが)当っただけで、その他の外れた個所のことを全て考えさせなくしてしまうというのがこういう占い番組だとか前世を見る番組の実に恐ろしいところだ。


この記事で挙げられた統一教会による霊感商法の被害というもの、実は単なる氷山の一角に過ぎない。まあ、いま自分が労力を傾けているジュセリーノの予言なんていうのも実はこういう日本に深く根付いてしまったオカルト的思考から抜け出せなくなった人たち相手に、ある種の霊感商法(不安ビジネス)を繰り広げているのである。

特に「波動」なんていう疑似科学がこの機を逃すまいとネット上で信者獲得のためにいろいろと工作を仕掛けている現状はなにかしらある種のSFを想像させる不気味さがある。いや本当にだ。きっと彼らは自分ところに信者が集まるために日本に大地震が来ないかだとか、パニックにならないだろうかなどと考えているのであろう。そういう発想が恐ろしいのである。

そしてそれを助長させているのはあい変わらずテレビ局(テレビ朝日)なのである。
去年発表した予言の大半が外れていることを知っていて「的中率90%」とか「恐るべき的中率」などという嘘を並べ立ててこのジュセリーノという予言者(自称)の名を日本に広めたのがこのテレビ朝日なのだから。

その実体についてはこのブログを読んでいただきたいのだが。

まあ、なにはともあれTBSとテレビ朝日にはまず番組終わりには、この番組がフィクションであり事実とはことなる、というテロップで締めるという大原則を貫くところからはじめてもらいたい。これでも自分はまだ君等の味方でもあるのだよ。

2007年1月26日金曜日

週刊文春による「江原啓之」批判

「江原啓之の虚構」を疑問視する週刊文春の記事
http://www.excite.co.jp/News/society/20070125201500/JCast_5135.html

「週刊文春」の07年2月1日号には「テレビの中の『わるいやつら』」という特集で
江原さんが4ページにも渡って紹介されている。
そこには「7つの疑問」が掲載されていて、その一つが「前世や守護霊はどうして
中世の賢者や貴族ばかりなのか」という疑問だ。

テレビ朝日系で放送されている「オーラの泉」に出演する芸能人への霊視では公家、武士、巫女、貴族、修道士、思想家などの「職種」が多出している。
地理的には日本、英、仏、伊に偏りアジアやアフリカは滅多に出ない。それが一覧表にされている。地球上には民族も、職種もたくさんあるのに、なぜなのか、まともに考えれば「摩訶不思議」というしかない。
ただ、お笑いタレントの「劇団ひとり」の守護霊は西洋の文学者と「別の星の人」。つまり宇宙人だというのだ。 また、「賢者や貴族」ではない場合もあって、「中村橋之助は歌舞伎役者、千代大海は力士、細川たかしは民謡歌手と、まるで取って付けたような見事なハマりっぷりだ」と同誌では皮肉っている。(J-CASTニュースより抜粋)


いまさらながらだが、こうして江原啓之に対する疑問であるとか批判が集中してしまうというのは、それだけ今まで無自覚なままこの番組をたれ流していたテレビ局そのものに対する批判もあるが、「納豆ダイエット」の次を探してしたネットに巣食う口さがない連中のターゲットになってしまったという側面もあるのであろう。

自分の場合、一年前にこの番組(の特番)をはじめて見てすぐにそのうさんくささに反応して(オカルト・バスターズの血が騒ぐ、という奴だ。)番組批判のようなものをここに記事にして書いた。

文春の記事内にあった批判のうち、最大のものともいえる「前世」の信憑性についてはほとんど同じことを書いている。自慢しているのではない。「誰でもが思いつく、あたりまえのことだ」と強調しているだけである。


さて、世の中にはかわいそうというか、いまだにこういうオカルトに対して夢だとか希望を託しているような人たちが多くいる。

「霊能力者にはたしかにニセモノが多いけれど、江原さんは本物」そういって憚らない、いわゆる「波動信者」がいるということだ。

彼らからすれば「輪廻転生」は絶対にゆずれない教義というか根本思想である。というかそれがないと言っていることが成立しなくなる可能性が高いのでこういうことに必死になるのだ。

自分が情けなくなるのはむしろ彼ら「波動信者」の脆弱な感受性のほうだ。論理的にぶっこわれた連中だということは今更どうこう言ってみてもしかたがない。

あのオッサンの言っていることが見抜けないでて「本物の霊能力者」だと感じてしまうくらい彼らの感性そのものがどうかしてしまっているのだ。

むしろ見逃せないのはその点のほうだと思う。いうまでもなく、「波動思想」にはカルトとしての側面が強いのだという自説を証明しているようなものだからだ。

波動の皆さん、まずはあなたの身近にいる「江原啓之は本物」と言っていた同士を疑うところから始めてはいかがでしょうかね?決して無駄ということにはならないはずなんだが。

2007年1月6日土曜日

あけましておめでとうございます。

年明け早々横浜・東京に滞在していた。東京ではついに泊るところがなくなってしまいホテル暮らしである。なんかしっくりこないんだなぁ。東京でホテルっていうのがまだ。

夜の11時くらいまでは心のどこかで「まだ小田急(千代田線)の最終に間に合う」とか考えていたりする。


さて、年末年始と沢山のメールを頂いてそのままにしっぱなしである。この場を借りて御礼とお詫びを申し上げます。

中にはヘンなメールもだいぶ混じっていたが。

「悪運つきたか」みたいな感じのものには首を捻った。意味がわからない。運に悪も善もありはしない。そもそも「運」ってなんだ?

そもそも、自分のPCの故障そのものはもう直っている。常時接続できなくなったのは周囲の状況のドラスティックな激変のためである。それを指して「運」というのはなんかおかしくはないか?


はなしは変わる。横浜でかつての生徒のひとりに久しぶりに再会した。約5年ぶりくらいか。

「気」についての科学的な証明という話題なってしまった。年末にやっていたビートたけしの特番でそんなことをやっていたからである。不幸にも(幸いにも?)自分はその番組は見ておらずいったいどういう状況下で「気」そのものを科学的に証明したといっているのかはまったくわからない。が、大体は類推可能な範囲である。

我々が「気」と呼んでいるいるものの正体についてはまだなんも解かってはいない。これだけは動かしがたい事実である。

「科学的な証明」というのは、つまりは追試が可能ということだ。同じ条件下で同じ現象が再現できなければそれは決して「科学的な証明」とはいわない。

現実問題、いわゆる有名な「気功師」が繰り返し「気」の実存を証明しようと「実験」してはいるが「完全な追試」にはなったためしがない。

彼女がいうところの「プロレスラーでも倒してしまった」というのも、実は「気」の証明にもなんにもなってはいないのだ。

というのはあれは誰でも出来てしまうからである。そもそも人間というものは目を閉じたまま長時間立っていることが出来ない生き物である。二足歩行を手に入れた代償みたいなものである。ほとんどの人間は耳の奥にある「三半規管」で平衡感覚を保ち、目でもって微妙な傾きを感じ取りそれを補正して立っていることが出来ているだけだ。したがって目を閉じて立っているだけでほとんどの人間は前か後ろに倒れこんでしまう。必ず前に倒れるのは後ろに倒れたほうが怪我をするという経験から無意識に「前に倒れるほうを選んでしまう」のだ。

というか自分も若い頃にこのトレーニングをやっていた。というかやらされていた。普通の人よりはだいぶ長い長い時間立っていられるようになった。でも数十分が限界だ。それ以上はまずもって不可能なのだ。

一種の宴会芸としてこの技を披露したこともある。数人に目隠しをして立たせて自分が気を送る振りをする替わりに招き猫を置いておくのである。

全員が倒れこんだところで目隠しを取らせる。目の前に置かれた招き猫を見て全員が苦笑するのである。

そして二重の意味での思い込みに気がつくのだ。

「気」などというものがそうそう「操れる」ものではないということと、暗示にかかると招き猫を置かれただけでも簡単に倒れこんでしまうものだということに。

さて、誰かその年末のビートたけしの特番を録画したビデオがあったら送ってはくれないかな。誰がどうやってその「気」を送る実験をしたのか どういう具合に「証明」したのかがものすごく気になっている。


【追記】

そもそもが、ここでこんなことを書いたりしたことがジュセリーノ予言に対する批判に特化してゆくそのきっかけとなった。その記念すべき記事である。

その後この記事を見た知り合いのそのまた知り合いの「いちかわ・ひろし」さんの耳に届き、彼から番組を録画したディスクを送っていただきこの番組の内容の検証をしたのが「気の実験のビデオを検証する」という記事で、ジュセリーノの予言について触れたのはあくまでも「ついで」だったのだ。

そしたら肝心の「気」の実験の方はともかくも、二週間も経たないうちに「ジュセリーノの予言」に関するメールだけが毎日のように届くようになってしまった。

このころはまだジュセリーノの予言そのものものはさほど知られていなかったらしく、自分のこのブログでやっていることにはあまり誰も大きな関心を示さなかったころだ。

今振り返ってこの記事を読むといろいろな感慨がある。

変化もあった。

中でもその一番大きなものというのが、自分にあの番組の中での「気」の実験について話題を振ってきた元生徒の女性が結婚したことだ。

めでたいことである。

2007.12.27