2005年11月3日木曜日

天国の誕生

医師をしていた友人がいた。今は医師を辞めて山梨のある中都市で園芸の仕事をしている。これは本人の了承を得て書いているのだが、数年前奥さんが亡くなったのをきっかけに当時勤務していた小さな個人病院を辞めてしまった。個人的な意見を言わせてもらうが、プロ意識のない人間だなとは思う。また、彼を良く知る人間としては、しかたないのかなとも思う。彼の奥さんのことはあまり良くしらない。電話で話したくらいで、特に強い印象はなかった。入退院を繰り返していたがあるとき不治と言われる難病であることが判明した。

それからのことはかなり慎重に語らなければならないのだが、ふたりはそろってある新興宗教に入信した。そこでなにがあったのかはわからない。が友人はすぐに奥さんを説得し脱信したのである。まもなく奥さんは病状が悪化し亡くなってしまったのだ。

共通の知人から元医師の友人の消息を知ったのは一昨年のことだ。その後かなり長い手紙をもらった。奥さんを失った喪失感や最後の最後、彼女に幸福感を与えることが出来たのかの迷いなどが面々と書き綴られていた。最後の絞めに、自分が今精神の均衡と平静を保っていられるのは今まで考えたこともなかった天国というものの存在を真剣に考えられるようになったからだ、とあった。

少し説明を加えるならば、自分が無神論者であることはいまさらながらだが、彼もまた無神論者であった。いわばその袂を分かったことを私に表明したのである。

私の無神論についていうならば、「科学万能」に基づいているのではない。既存の宗教を全面的に否定するものでもない。「あなたの言う神と私の中にある神は同じではない」という絶対的な確信なのだ。誰に言われようがそれは揺るがない。

かつて、ある人に頼まれて社会的に問題になったカルトの元信者の脱プログラムの手伝いとして既存宗教の学者の方々とお会いしたことがあった。
そのときにしみじみ感じたのは今の日本、既存宗教は決して人の心の問題を解決はしないなということだった。
むしろカルト呼ばわりされている怪しげな新興宗教の方が確実に「心の問題を解決」するのである。それはなにも新興宗教が優れているとかではない。たとえていってしまえば「後だしジャンケン」の方が有利なのと同じことだ。

既存宗教が規定していた「人の人生」や「一生」「寿命」「幸福」がリアリティを失ったのだと思う。本来宗教に帰依すべき良き人々の心を掴むべきなにかを失ったのである。
カルトと呼ばれるものの多くは科学を取り入れ、いかにもなものが多い。まあ科学といっても疑似科学留まりだが。がしかしそういったものの方が人の心を掴むのは確かなようだ。
彼が新興宗教に入信したのもうなずけなくもない。明日をも知れぬ家族の命を救うためとなら自分もそうしたかもしれない。ていうかおまえはまず結婚が先だろ、という突っ込みがはいるけど

目の前にいる信者に向かって「あなたが信仰している宗教はインチキだ」と諭すのは勇気がいることだ。
というかそんなことしてもやはり無駄なのだ。脱プログラムが成功するのはあくまで「元信者」だからであって、「抜けたい」という意思が脱プログラムという別の救いを求めているだけなのだと思う。

天国というものについて語るとするといくつもの障壁がある。単純に死後の世界はあるのかないのかからはじまり、はたしてあなたの語る天国と私の中にある天国が同じものなのか、天国とともに語られる地獄というものについてもそうだ。
天国の存在が人の心を救うのであればそれ以上は何もいうまい。だがあなたのいう天国がわたしの中にある天国と同じものなのか誰もわからない。

というようなことを彼に手紙で書いて送った。

彼がいかようにその手紙を読んだか、それはわからない。
今年彼から年賀状が届いた。ホームページの再開を望む旨が書き沿えてあった。彼はまだこちらのブログのことを知らないようだった。