2006年1月25日水曜日

似非科学との対峙 12才少女の死を悼む  (再掲/重複)

前もちょっと書いたが、20年以上も前、自分は「波動」を研究しているというサークルに勧誘されたことがあった。当時の仕事仲間のひとりが以前所属していた広告制作会社のディレクターだったかプロデューサーの女性が自分のサークルへの入会を迫ってきたのである。
こうなったのには自分にも多少の責任があった。以前自分が語った「UFO目撃談」が伝言ゲームよろしくかなり歪んだ形で彼女らの耳に届いたようなのだ。

自分のそのUFO目撃談について説明するが、東京から仙台に車で移動中、那須塩原あたりで中空に浮く鉛色というか鈍く銀色に輝く物体を見たという体験である。ちなみに同乗していた他の5人は誰ひとりそれを目撃していない。
もっと言ってしまえば、その前の2日間、自分はほぼ不眠状態であった。UFOはその極度の精神状態がひきおこしたある種の幻覚であろうと思われる。

オカルト肯定派のなかには、「自分は見た」ということを根拠にしてオカルトの実在を説く人がかなり多い。かなり自己愛の強い考え方である。まず疑うべきはまず自分の視覚・聴覚といった感覚器官であるという第一鉄則は通用しないらしい。実際に、病気の苦しみや死への恐怖は幻視や幻聴といった幻覚を人に見させるものなのである。

自分はその「UFO目撃体験」を、安易なオカルト志向をやんわり否定するために例として挙げて何人かに語っていたのだが、伝言ゲームのどこかで後段が抜け落ち、ただ単に「UFOを見た」話として彼女らに伝わったようだった。

「もう無理しなくていいのよ」というその女性には、自分がそのUFO目撃体験をひたかくしにしているとの誤解があったようだ。
「ちゃいまんがな、わいは別に隠してんとはちゃうがな(´・ω・`)」
自分の中の似非関西人が彼女に突っ込みをいれた。自分がそれをあまり声高に言わなかったのはその場にオカルト肯定派がいたならばという可能性を考えての遠慮である。

「波動」というものが、その考え方の奥底にある危険性については何度となくいろんなところで書いてきた。重要なのは本来科学的な分野では平等に扱うべき「こころ」の問題に対してやたら優劣をつけたがることだろう。でなければ「高貴な波動」とか「悪い波動」などというフレーズがなんのためらいもなくポンポンと出てくるはずがない。どこかで大切なものが抜け落ちてしまっているのである。

あまりにも有名になってしまったが、「冷蔵庫の中の納豆」という話がある。
ある人が2つのパック入り納豆を冷蔵庫の中に置いた。ひとつには手かざしかなんかで良い波動を与え、もうひとつには悪い波動を与え、3ヶ月放置したという「実験」だ。

結果、良い波動を与えた納豆は醗酵が進み、悪い波動を与えた納豆は腐敗したのである。
そしてこれはまぎれもない「科学的な事実」なのである。

この話のレトリックにお気づきであろうか?
実は科学の分野では醗酵と腐敗はまるっきり同じ現象である。ただ単に人間に役に立つものを「醗酵」と呼び、役に立たないものを「腐敗」と呼び分けしているだけなのだ。また、納豆は冷蔵庫のような冷暗な場所にほっといても自然に醗酵(腐敗)してゆく。それだけなのだな。

問題なのは、それを良いとか悪いとかの二分化ディバイスメント(装置)を働かせる基準が「人間の感性」だということなのだが。

さて、その「サークル」の主催者の女史に呼び出しを食らった自分は、その女史に「波動」なるものの「科学的説明」を受けたのだが、その「科学的」と称するもののなかに多数あった矛盾点を挙げて「科学的な」説明を求めたのだが、結局彼女は口を濁して「それは今研究の分野だから・・・」「専門家の説明では・・・」と逃げるだけであった。彼女のいう「科学」というのは、あくまで自分達の内側だけで通用する一種の方言でしかなかったようだ。

私は業を煮やし最後に彼女に対してきつく迫ったのである。「何をやろうと構わないが自分達の活動のために『科学』という言葉は絶対に使うな」と。彼女と私のやりとりをそばで聞いていた何人かはそれで目が覚めたのか、後日ひとり抜けふたり抜けした。

さて、その後そのサークルはテナントビルを借り、「研究所」という看板を出したりして活動を続けていたのだが、あるときを境にその内部は変化していったようで、最後は主催者とふたりの女性だけの三人だけとなり、そのまま、『波動思想』を取り入れた新興宗教にまとめて入信してしまった。

簡単に言えば内ゲバである。ディスカッションを続けているうちにその『波動』に対する考え方の違いがあきらかになり、ふたつの派に分かれての深刻な対立から、ごそっと人間がまとめて抜けてしまったのだ。

どこかで聞いた話だとは思わないだろうか?そう、連合赤軍事件そのままなのだ。実際に人を殺すか殺さないかの大きな違いはあるが、本質的にやってることは同じである。

ジェイムス・ランディのオカルト叩きの本や、元FBI捜査官の回顧本によると、単なる趣味のニューエイジ系のサークルが質的に変化し、危険思想=カルトになるのは、まずまちがいなく「研究所」のような施設を持ったときからだそうだ。

リアルなエステート(不動産物件)を維持するめに金が必要になるからだ。そのために強い共通認識が生まれるのはいいのだが、異分子は排除され、どうしても思想は純化されてカルトになってゆくのである。

最近、ある波動系の人のHPを見ていて不謹慎ではあるが思わず笑ってしまったことがあった。友人達と研究所を立ち上げたときの苦労話を語っているのだが、「~まるでなんかの新興宗教と誤解されそうで~」とさらりと言ってのけているからだ。自分達が新興宗教をやっているという認識はゼロのようだ。実はこれこそが恐ろしいことなのだが。

こういった似非科学=宗教による犠牲者がまたも出た。重い糖尿病に苦しむ12才の少女がある宗教施設に送られ、絶対必要なはずのインシュリン注射をせずに放置されたのである。
逆算して今考えれば「なんて馬鹿なことを・・・」と思うであろう。誰でも。そういうまともな判断力を失わせてしまうのがカルトの恐ろしさなのである。だからと言って弁護する気にはなれないが、その死んだ12才の少女の母親もまた、娘の重病のために心神が普通の状態でなかったのだということは想像に難くない。

そしてこれはなにも「特殊な事」ではなく今でもどこかでこのような似非科学の衣をまとったカルトは心の弱った人に取り付き同じようなことをさせているのである。
『波動』という言葉を見て甘く考えてはいけない。第二のオウム事件、ライフスペース事件の芽は確実に残っているのである。



(リクエストにより再掲します)2006.01.21
(都合により重複です)2006.01.24

<初出『人生の一日』旧05.07.21>

「ニセ科学」とどう向き合っていくか? 日本物理学会、3月に松山でシンポ
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601050043.html(削除)

似非科学と宗教の狭間
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/321261.html


0601250152

「水からの伝言」に耳を傾ける人たち  (重複)

「ニセ科学」とどう向き合っていくか? 日本物理学会、3月に松山でシンポ
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601050043.html(元記事は削除済)

この記事中に出てくる「水に優しい言葉をかけると美しい結晶ができる」と書いてあるのは
おそらく江本勝の一連の写真集のことだろう。

自分がまだ下北沢の事務所で仕事をしていたころだから99年(6・7年前)のことだと記憶しているが、事務所にいたアルバイトの女の子が「ヴィレッジ=ヴァンガードで売ってた」といって持ってきたのを見せられたことがあった。

出版社の名前が「波動教育社」というのもスゴいが、文章のあちらこちらに散見するアヤシさからこれらがいわゆる科学とは無縁の心霊写真やUFOの写真同様「捏造された」写真だなとは感じた。そのときは説明できなかったが。

あとでインターネットやなにやらで調べて、これらの写真が、氷が溶けたときに出来る「チンダル現象」であり、水の結晶というよりもやはり氷の(隙間に出来た)結晶(の抜け殻)と呼ぶほうがふさわしいと気がついたときにはほっとしたものだ。というか第二弾の写真集にはちゃんとそのことに言及されていることを知ったのは割と最近である。

むしろ問題にすべきは、水に「ありがとう」という優しい言葉を掛けると「美しい結晶」になり、バカヤロウなどの汚い言葉を掛けると「汚い結晶」になると言ってることだろう。
それではビートたけしが愛情を込めて「バカヤロウ」と言葉を掛けるとどうなるのだろうか、とか、水は紙に書かれた文字を読むというが、では紙に「きれいなウ〇コ」と書いてみせたら水はどう結晶化するのだろうかとか、山田花子の歌う「明日があるさ」を聞かせたらどうなるのだろうとか想像は膨らむばかりだ。

まあ冗談はさて置き、最近仙台の某大手書店に立ち寄ったときこれらの写真集が大々的に平積みにされ特集コーナーが組まれているのを見た。あまり良い気分ではない。文句を言う筋合いではないのだが。

こういう問題を取り扱う分野についてあれこれ言うと「無粋な奴」とか言われるのは承知の上であえて言わせてもらうが、こういった写真集の方がむしろ「人間の精神」であるとか「心の問題」を侮辱している行為である。本来もっとデリケートに扱わなければならない問題を、嘘っぱちの捏造写真にからめて語るほうがよっぽど人間の精神や心というものに対する背信的な行為だと言っているのだ、違うだろうか。

「精神」であるとか「こころ」について語るのは良いとして、なぜそこに「人の心に反応する水」であるとか「水の結晶」を持ち出さなくてはならないのだろう。自分の中にもある「精神」であるとか「こころ」さえ矮小化され語られているような不快感を覚える。

さらに、このような捏造された写真を「科学的」と称して、「美しい心を持ちましょう」とか道徳の教育に使うとすればそれは二重の意味で犯罪的な行為と言える。

秋田の伝統行事に「なまはげ」というのがあるが、「悪い子はいないか」と包丁を振りかざす鬼の存在が子供に対してしつけと教育になっているからといって「鬼は本当にいるんですよ」と真剣に包丁を振りかざし年に一度やってくる鬼の実在を触れ回っていると同じじゃないの。

いつの間に日本の教師供はここまでキケンな存在に落ち果てたのだろう。子供たちに語るべき事、言葉はもっとあるだろうに。邪推になるが、こういった写真集を使った方が楽だろうし、ある意味責任逃れにはなるな、ということだ。

今度冬季オリンピックの行なわれるトリノのヨハネ大聖堂教会には「キリストの聖骸布」と呼ばれるものがある。ゴルゴダの丘で磔になったキリストの遺体が包まれたと言われていた布だ。この布の科学的な分析(炭素14による測定だったか)が行なわれた結果、布自体は99%の確率で1200年代から1300年代に作られたものであることが今でははっきりしている。

だが、果たしてこの結果から「キリスト教」そのものが嘘っぱちであると説いた者はいただろうか?あるいはこの布がニセモノだと判明したからといってキリスト教を離れた信者はいたのだろうか?

そもそも、このニセの聖骸布がなにものであったとしても、キリスト教そのものに対する人々の考え方は少しもかわっていないのである。糾弾されるべきはこのニセもの聖骸布を布教の材料に利用するためにウソの鑑定をした学者である。あるいはウソと知りつつそれを隠したままキリストの奇跡を口にする人たちであろう。

私からすれば、これらの水の結晶写真を「科学的」であると宣伝したり、盲信したりして「人間のこころ」にからめて語る人たちこそキリスト教における背信者と同じにしか見えないのだが。

元記事全文(元記事削除のため記載)

日本物理学会(約1万8千人)が3月に松山市の愛媛大で開く学会で、「ニセ科学」について議論する。これまでは「相手にしない」姿勢だったが、「社会的な影響は無視できない」として、シンポジウムを開いてどう対応すべきか考える。研究者が集まる学会の場でニセ科学がとりあげられるのは珍しい。 / シンポを企画した田崎晴明・学習院大教授(統計物理学)によると、最近のニセ科学は「科学らしさ」を装っている場合が多く、オカルトや心霊現象にはだまされない人でも、「科学」として信じてしまう場合が少なくない。ニセ科学に詳しい菊池誠・大阪大教授(同)によると、「水に優しい言葉をかけると美しい結晶ができる」などとする珍説が、小学校の授業で紹介されている。/ シンポは学会最終日の3月30日に開催。「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」をテーマに、根拠がはっきりしない「健康にいい水」などの実例を紹介し、それらを生み出した社会的要因を考える。/日本物理学会の佐藤勝彦会長(東京大教授)は「ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ」と話す。 /「ニセ科学」とは、(科学と擬似科学の境界付近にある位置づけの微妙な営みのことではなく)科学的に誤り(ないしは無意味)であることが明白であるにもかかわらず表面上は科学を装っている営みを指します。「ニセ科学」は、物理学の研究にはほとんど何の影響もないでしょうが、広い意味での科学教育を考えたとき強い影響力をもつおそれがあると考えています。/このシンポジウムでは、いくつかの典型的な「ニセ科学」の事例を紹介していただきながら、私たち物理学者が「ニセ科学」とどう向き合っていけばよいのかを考えるきっかけを作りたいと思っています。

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2006年1月22日日曜日

フリップ&イーノ 次のWINDOWSの起動音はこの中にある


キング・クリムゾン活動停止中のロバート・フリップとロクシー・ミュージックを脱退したイーノが、マッチング・モール2ndアルバム「リトル・レッド・レコード」レコーディング中に知り合い意気投合(意思投合かな、このふたりの場合)して作られた第一弾「ノー・プッシーフッティング」(左)とその翌年にレコーディングされた「イブニング・スター」(右)の二枚。

全体的に掴み所のない単音の繰り返しで、まともに聞こうとしたらイライラするか疲れるだけだと思う。自分は執筆中のBGMとしてイーノのソロアルバムはよく聞いていたが、このコラボによる二枚は避けていた。

仕事の質にもよるだろうが、効率とかスピードを求められる仕事のBGMとしては向いていない。「イブニング・スター」というタイトルから夜向きかというとそうでもなくむしろ朝まだ意識が朦朧としてはっきりしないときにこのCDを聞いていると「はやくシャキッとしなきゃ・・・」と思うことがあったので、そういう聞き方、使い方の方が正しいのかもしれないな。それは今もかわっていないと思う。

はじめてこの二枚を聞いたのは高校三年のころだったか。

そのころ自分が聞いているロックというジャンルの音楽のなかで―そのロックが内包しているいくつもの要因の中で―自分の中に一番強く訴えかけてきたのはハード・ロックの激しいビートであり、その真逆とも呼べるほとんど無音に近いような静謐(せいひつ)な「間」というようなものであったと思う。

ちょうどこのころ、親しかった女の子が病気に倒れ、明日をも知れぬ状態であったことと強く関係しているかもしれない。「なんとかしてあげたいが何も出来ない」自分というものに腹を立てて、かなり自暴自棄な日々を過ごしていた。

そんな自分にとってこの二枚は聞いてイライラするだけだった。まあなんというのか裸の自分と強制的に向き合わされる、自分の本質というものについて自省的にさせられてしまうからだろう。

というよりもそれは自分だけでなく、当時のほとんどの人間がそうだったのである。このフリップとイーノという当時ロック界の二大インテリが提示したこの音楽の形は先進すぎて、その意味すら理解し難いものであった。自分が多少なりとも理解できるようになったのはもっとあとのことである。

イーノの説明によると、聴き手の環境の中で生成された偶然がもたらす結果が重要なのだそうだ。最初は自分もそれこそ「なにそれ?」だったが、それこそ、「ある偶然の出来事」がきっかけでイーノの言葉について考えるようになった。

「ノー・プッシーフッティング」の音には、それこそタイトルどうり人間よりも猫のほうが異様な反応を示すのだ。昔あるとき、二階建ての二階の部屋でこのレコードから落としたテープ(時代を感じるな)を流していたら、窓の外から見える屋根の上で日向ぼっこをしていた猫どもが次々むくむくと起き上がり互いに顔を見合わせ不快感を露わにしてその場を去っていったのである。猫害にお悩みの方にはお奨めの一枚である。

20数年前、イーノのビデオアート展が赤坂で行われたときにイーノの講演会も催された。そこでイーノは黒板を使ってこの「不規則性という偶然がもたらす音楽」ついて珍しく熱弁をふるっていた。不規則性と偶然と、それを取り巻く環境、音楽(装置)が生み出す効果について。そこで彼がモチーフとして例にあげたのがこのフリップとのコラボによる二枚のアルバムだった。イーノにとってフリップの出すギターの音こそが当時それを具体的に表現するにもっとも適した身近なモチーフであったのだと。

それから10年後、WINDOWS’95という世界的にバカ売れしたOSの起動音を手がけたのはほかの誰でもなくこのイーノであった。再起動を何度も繰り返し、あの起動音を繰り返し聞いてて不快になった人も多かろう。自分もあの起動音を何度となく不快な気分で聞き、そしてふとあの時の猫どもを思い出した。

結局、音が不快なのではなく、再起動しなければならない事態が不快なのであり、ただ単に聞く側の精神状態を反映しているだけなのだと。20年掛かってやっとそこまでたどり着いたわけだ。
で、今自分のところにとんでもないニュースが飛び込んで来た。(矢追純一かよ)次のWINDOWSの起動音を手がけるのが一方の雄ロバート・フリップだというのだ。ああ、今すでに自分の頭の中にはあのギターのヒョロロローというという新しい起動音が鳴り響いているくらいだ。

いまからこの二枚のCDを聞いておき、新しいWINDOWSの起動音に慣れておくというのはどうだろう?損はしないと思うが。

するかやっぱり。
              06.01.22.17:30

2006年1月17日火曜日

事件の現場から~新生児誘拐事件報道で感じた違和感

今回の仙台で起きた新生児誘拐事件については考えることが多かった。

テレビの画面に次々と映し出される、事件に関係する「場所」を眺めながら感じたのは「違和感」であった。意図的に歪めたカメラアングルとBGM・効果音が「事件の現場」を演出していたからだ。
しかし、東京にいたころはテレビでニュースで自分がよく見知った場所が「事件の現場」として取り上げられていたりするのは普通によくあることで、その本来感じるべき違和感が麻痺していたのかもしれない。

仙台に移り住んで1年と少し。忘れかけてた違和感が蘇えったわけだ。~ オフコースの「眠れない夜」みたいだけど。

よく「劇場型犯罪」という言葉が使われるが、実はその責任と原因のほとんどはマスコミ報道にあるのだと思っている。唐沢悟ばりに揺れ動く映像と、過剰なまでの効果音・BGMは何のために必要なのだろう。そもそも、「報道」とは事実をそのまま伝えることではないのか。報道映像に意図的に何かを付け加えるのは「ヤラセ」である。現場にないものをさもあるかのようにみせかけているのだからな。

もうひとつ言わせてもらう。これはTBSの得意技のひとつだが、スポーツニュースでの実況風アナウンス、あれもやめてもらいたい。アフレコなのになぜわざわざ早口でまくし立てるアナウンスが必要なのだろう。そんなんで「臨場感」が演出できるとでも思っているのか?それとも「この試合、ウチの局で中継してたんですよ」と思わせたいのかい?
自分にはただの馬鹿にしかみえない(聞こえない)のだが。
日曜の朝、そんな「実況風アナウンス」を聞くたびに自分は番組に『喝!』を入れてる。
(了)

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2006年1月8日日曜日

最近、ノストラダムス関連の質問が相次いでますが・・・

今月の5日くらいから突然どかーんとメールの数が増えた。多くはノストラダムスの預言詩に関する問い合わせで「〇巻の〇〇番の詩を訳して下さい。」みたいなお願いだったりするのだが、中には「なんでおまえごときがノストラダムスの神秘に満ちた予言の意味が読み取れるのか」みたいな悪意の感じられるのもチラホラあったのだ。なんだろうね?この言い方は~みたいな。

まあ、いいけど。
同じ質問を飛鳥昭雄とか大川隆法あたりにもぶつけてもらいたいもんだと思うけど(笑)。

というか特に強い動機がなければ、ノストラダムスの預言詩をここのブログでは訳したりはしません。あしからず。

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2006年1月5日木曜日

「似非科学」と「宗教」の狭間

気になる記事があった。長いが全文引用しておく。

「ニセ科学」とどう向き合っていくか? 日本物理学会、3月に松山でシンポ

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601050043.html

日本物理学会(約1万8千人)が3月に松山市の愛媛大で開く学会で、「ニセ科学」について議論する。これまでは「相手にしない」姿勢だったが、「社会的な影響は無視できない」として、シンポジウムを開いてどう対応すべきか考える。研究者が集まる学会の場でニセ科学がとりあげられるのは珍しい。 / シンポを企画した田崎晴明・学習院大教授(統計物理学)によると、最近のニセ科学は「科学らしさ」を装っている場合が多く、オカルトや心霊現象にはだまされない人でも、「科学」として信じてしまう場合が少なくない。ニセ科学に詳しい菊池誠・大阪大教授(同)によると、「水に優しい言葉をかけると美しい結晶ができる」などとする珍説が、小学校の授業で紹介されている。/ シンポは学会最終日の3月30日に開催。「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」をテーマに、根拠がはっきりしない「健康にいい水」などの実例を紹介し、それらを生み出した社会的要因を考える。/日本物理学会の佐藤勝彦会長(東京大教授)は「ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ」と話す。 /「ニセ科学」とは、(科学と擬似科学の境界付近にある位置づけの微妙な営みのことではなく)科学的に誤り(ないしは無意味)であることが明白であるにもかかわらず表面上は科学を装っている営みを指します。「ニセ科学」は、物理学の研究にはほとんど何の影響もないでしょうが、広い意味での科学教育を考えたとき強い影響力をもつおそれがあると考えています。/このシンポジウムでは、いくつかの典型的な「ニセ科学」の事例を紹介していただきながら、私たち物理学者が「ニセ科学」とどう向き合っていけばよいのかを考えるきっかけを作りたいと思っています。
 
とまあ自分がしつこく行っている事が実現されるわけでめでたいめでたい・・・とばかりもいっていられない。それだけ事態は深刻なのだ。

民放テレビ関係者に改めて問いたいのだが、細木和子とか江原啓之とかを出して、根拠のない占いとやらで人の人生を左右するようなことをあたかも「真実を装って」語るというのは良い事なのだろうか?何か大きな勘違いをしてはいまいか。「信仰の自由」というのはある。ではオカルトもまた「信仰」なのか?だとすればひとつの信仰に偏向しているのは問題ではないのか?

少し今日は怒りをこめて プンプン!(さとう玉緒風に)


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2006年1月2日月曜日

ノストラダムス預言詩八巻十六番の訳と解釈

Au lieu que HIERON fait la nef fabriques.
Si grand deluge sera & si subite,
Qu'on n'aura lieu ne terre s'attaquer,
L'onde monter Fesulan Olympique.

イエロンが船を造らせる場所で
突然の大洪水が起きるだろう
あまりの凄まじさに攻撃する場所も土地も失ってしまう
水はオリンポス山 フィエーゾレにまで達する
(山根和郎訳)

のように普通、Olympiqueという言葉は「オリンポスの山々」あるいは「オリンピアの地」としか訳せない。なにせノストラダムスの十六世紀の時代オンピック(という競技大会は)なかったのだから。

想起されるは古代オリンピックでありそれが行なわれた場所くらいだろう。普通、デカラシップで音韻の束縛がなければこの場所に当てはまるのはフランス語のOlympieかolympienのどちらか。あえてギリシャ風の発音しか出来ないOlympiqueという言葉を当てはめたところがノストラダムスの全詩に通じる一種のスノップであるのだが、まあこんなことガチガチの肯定派に言って見たところで無駄だろうけれど・・・。
四行目自体、「波が Fesulan Olympique に登る」のだから(デカラシップの為という言い訳は可能だが)「オリンピックの年に」と訳するのはおかしなことなのである。あるとすれば、出来上がった「日本語訳」にあとで手を加えた場合くらいだろう。

さて原詩をもう一度詳しくみてみよう。

Au lieu que HIERON fait la nef fabriques.
Si grand deluge sera & si subite,
Qu'on n'aura lieu ne terre s'attaquer,
L'onde monter Fesulan Olympique.

HIERONは古代ギリシャ時代のシラクサ(シラキュース 現在はイタリアのシシリア島あたり)の王。普通日本ではヒエロンと読まれる。シラキュースは人口は少なく、その大帆船すべてに自国の民すべてを乗せることさえできるのではないかとさえいわれるほど大きな船を作る技術と造船所を持っていた。そして、その大帆船軍団でローマ帝国やカルタゴを相手に渡り合いつかの間の繁栄時代があった。そして、ヒエロン王が歴史的に名を残しているのはアルキメデスのテコの原理と浮力の法則の発見に登場するからである。

Fesulanは意味不明の、おそらくはノストラダムスによる造語。インターネットでこの言葉を検索してもこの8-16番関連のページしかヒットしないくらい。(笑)

Feulan=Fue+lance:火の筒先ではないかという説がある。
それだと、ノアの箱舟と合わせて、オリンポス山の頂上にいる神々の怒りと解釈出来て、確かに解釈しやすいし、座りもいい。

私は、単純に二行目との対比で「grand deluge(たぶんノアの洪水を指すと思われる)が突然やってきたならば(si)~」に対する「~であろう(予測未来)」のために用意された言葉で、波はオリンポスの山のどの程度に、(どの程度まで来るのか)を形容するための言葉だと思う。したがって「頂上」というのはは魅力的な解釈ではあるのだが・・・

一行目と三行目からは大帆船を作ることと、洪水の規模の大きさからやはり「ノアの洪水」を暗喩した表現だと取る。

ヒエロン王の大帆船工場にも
大洪水は起こるのである、突然に
その波の襲来は土地をすべて失わせ
オリンポス山の神々の怒りを静める
(拙訳)

解釈としては

かつてシラキュースの王として君臨したヒエロス王の作らせた大帆船でさえ
大洪水が突然押し寄せればすべての人が船に乗り込む場所もなく
船はオリンポス山の神々の怒りが解けるのを待つしかないのである。

つまり、神の怒り(を具現化した津波)の前に人間がいかに無力であるかということを表現した詩ではないかと思うのだが。(了)

0601021641