2006年3月12日日曜日

オカルトは人を殺してしまう

オカルトは人を殺してしまう

前にも書いたが、オカルトに嵌ってしまい自ら命を落とした人間を何人か知っている。
医者に行くことを勧めたのだがそれを断わり、加持祈祷の類に頼り手遅れになってしまい死んでしまった人が何人かいたのだ。自業自得といえばそのとおりである。

最近も友人の奥さんが子宮だったか卵巣のガンの発見が遅れて三十代の半ばで死んでしまった。

いわゆる波動系の信者で治るはずの病気が発見が遅れてしまい、自らの命を縮めてしまう人が多いと聞く。

「ヒーリング」と称して(完全に言葉の使い方を間違っている!)本人の意志の力と仲間の送る念でガンが治ると吹聴している集団のことは結構耳にしている。

当人たちにその自覚はないようだがこれは立派な犯罪である。犯罪に立派もクソもないのだが。

崖に続く一本道を歩いていっているのに止めないのとまったく同じことだ。一種の殺人(自殺幇助)行為なのである。

このことをずっと言いつづけてきた。しかし無駄ななことはやはり無駄なようだ。

馬の耳に念仏という言葉があるがまさにそれだ。

当人が死を願っているのかというそうではない。生きる手段として波動とかヒーリングとかを選んでいるのならば周りにいる家族なり友人なり同僚がどんな手段を使ってもこれらの集団から引き離して医者のところへ連れてゆくべきなのだが。

前にも書いたが、病気の痛みや苦しみもまた幻視や幻聴という幻覚を生むのだということを忘れてはいけない。

その、妻を失った友人と何度も手紙やメールのやりとりをしていて改めて思うのは人がオカルトに嵌ってしまうプロセスのことだ。

彼らの話を聞いたりしていると、そのほとんどがいわゆる「疎外感」なのだと気づかされる。そして人の心の中に疎外感を産むのは一種の選民思想 ―自分はほかの人とは絶対的に違うのだという誤ったエリート意識― なのである。そしてその選民思想を産むのはその底流にひそむのは劣等感なのである。

オウム事件のときにその信者の多くが東大やら早稲田慶応のいわゆるエリートぞろいだったことに驚いたひとは多かったようだが、不思議でもなんでもない、エリート意識、疎外感、選民思想というキーワードで読み解けばむしろ当たり前のことなのであるが。

日本には信仰の自由はあるが人の命をもてあそぶ自由はない。人の命を弄ぶのであれば香田証生という日本人の首を刎ねたイラク人と同じで宗教に名を借りたただの殺人集団でしかないのだが。

この言葉を重く受け止めてほしいものなのだが・・・ 無理だなたぶん。

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