2006年8月25日金曜日

犬に噛まれる 

犬に噛まれてしまった。

これはなんのメタファーでもたとえ話でもない。本当に犬に噛まれてしまったのだ。

不幸な事故なのである、これが。

5日ほど前だが、道を歩いていたら、後ろの方から自転車に乗ったまま犬を散歩させている人がどんどん近づいて来た。

その自転車と犬が調度自分の脇を通り過ぎたときだった、犬が急に進路変更をこころみようとしたためにリードを強く引張ってしまい、サドルの人がバランスを失い、「キャッ!」と叫んでこちら側に横倒れになってきたのだ。

で、私はそれを見て、慌てて倒れてきた自転車を支えようと手を差し伸べたのだが、それが犬の目には「主人が襲われている!」と映ったのだろう、思いっきり私の左の手首に噛み付いてきたのだ。

中型の柴犬なので噛まれると相当痛い。自転車の女性がすぐに犬を引き離したので大事には至らなかったが。

それでも二・三日は腕が丸太のように腫れ上がり、キーボードを打つどころか肘を曲げたり手を握ることも出来なかったくらいだ。

お互いがそれぞれ保険会社に連絡したのだが、自分の保険では「犬に噛まれた」だけでは治療費に見合った保険には届かないということがわかり、双方の保険会社で協議した結果、こちらの保険は一切使わずに、向こう(犬の飼い主)の保険を全面的に使うことでやっと一段落がついた。とりあえず慰謝料のようなものはこちらからお断りした。向こうが初めから全面的に謝罪してきたからだ。それがあれば充分というものである。トラブルを大きくすることは好きではない。

二十数年前、似たようなことがあった。そのときは解決が長引いてしまった。理由はただひとつ、向こうが自分の非を認めようとしなかったからである。いつも最後に「でも・・・」とか付け加え、自分の主張をしてきた。というか、自分のしたことの本質を正しく理解していなかったことに私は怒りを覚えたのである。それでは困る。何故ならそれからも同じようなことをされる可能性だけが生きつづけるからだ。それだけは阻止したかったのだ。それと今回はそこが大きく違う。

とはいえ今自分が軽い犬恐怖症になっているような感じである。まあたいしたことはないのだが、犬が近寄って来た時、以前のように気軽に頭を撫でたりが出来ないのだ。かならず尻尾を見て、お犬様のご機嫌を伺ってから右手で撫でていたりする。隣りで飼っているチワワ相手にもだ。

しかし、やはりその自分を噛んだ犬に対しては悪感情は抱いていない。「不幸な事故だった」と思うだけだ。

実はその後、二度ほどその犬にも会っている。謝罪のためにやってきたりしたからだ。
もちろん、犬がひとりで謝罪に来るわけがない。(来たら面白いだろうが)その飼い主が犬を連れて謝罪にきたのだ。

私にはこの神経がわからない。流石に二度目の時には「犬は連れてこないでくれ」と頼んだ。

その柴犬には、この私はおそらく未だに「敵」としてしか映っていないことぐらいはわかって欲しいものである。

これはもうどうにもならないことだ。主人と一緒のときこそおとなしくしてはいるが一度犬に染み付いた防御本能・攻撃本能はなかなか直らないものなのである。

こういうことをちゃんと理解している犬の飼い主は意外と少ない。

「この子(犬)、本当はおとなしくていい子なんですよ~」とか言われてもなぁ。

そりゃ言いたいことは解る。わかるが彼(彼女)は生き物としての犬というものの本能をちゃんと理解しているとは言いがたいと思う。

彼(彼女)のその言葉は、ただ単に、自分が飼っている「犬」という「鏡」を通して自分自身について述べているだけにしか聞こえないのだ。


話はかわる。ある女性作家が「生まれたばかりの子猫を殺している」と告白して今ちょっとした騒ぎになっている。

この人の言い分はわからぬこともない。とりあえず言っていることは理解できる。
しかしこの人の「弁解」を読むと、自分の飼っている猫どもに対して「愚かな小さな神」として振る舞っていることに対する「義憤」の感情が湧き出てくるのだ。

この世には、その女性作家以上にその雌猫三匹と幸福に暮らせる「人間」は幾万人といる。この三匹の雌猫は飼い主を誤った。そのことに対する悲しみである。

人間は人間である。神ではない。彼女の考えかたにはこのことがすっぽりと抜け落ちてしまっている。だから読者の共感を呼ぶどころか非難だけが増幅してしまうのだ。

確かに自分が飼っている猫や犬に対して飼い主はほぼ絶対といっていい存在だ。
殺すも殺さぬも飼い主の胸先三寸であろう。そのことをいちいち責めてもしかたがない。

しかしその行為に対して「雌猫の生と性」であるとかの理由付けは許されない。
「生まれてきた命」と、「これから生まれてくる可能性のある命」はまったく別のものだ。頭の中の単純な引き算では出せないもの、それが命というものだろう。

むしろこの人の内側にある、その貧弱な「生命観」だけが空々しい。なぜ空々しいかというと、その「生命観」はもう一方の人間には絶対当てはめることなどできないからだ。そのことにはちゃっかりと目を背けてもらっては困る。

即刻飼っている雌猫に避妊手術を施す、それが飼い主としての「人間」に許された数少ない手立てである。それが出来ぬというのなら表に雄の野良猫がうようよといる環境で雌猫など飼うべきではない。

人間は神ではない。おそらくはこれからもずっとずっと未来永劫、「神」には近づけないだろう。何故なら「神」が人間の作り出した想念(=コンセプト)であるのなら、これからも人間は自分に都合のよい「神」を新たに作りつづけるだけだからだ。

人間というのはそういう愚かしい「中途半端な」生き物なのだ。私も、そしてあなたも。

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