2014年7月13日日曜日

スマホはまだ完成途上の携帯電話

スマホ



スマートフォンが「スマホ」と呼ばれるようになり、それが定着してもうだいぶ経った。

わたしは未だに携帯(ガラケーというのか)持ちで、しかもPHSだ。スマートフォンにしようと思ったことは(自慢じゃないが)一度もない。

理由はただひとつ、スマホは役に立たないから。それだけだ。

スマホのなにが問題かというと、結局、「スマートフォン」が電話であって、携帯電話として見た場合、あんな欠陥商品、誰が喜んで使うのか、ぐらいのものだろう。どれもこれも。

人が使っているのを見ててこっちまで不安になるのは、その脆弱な構造で、いかにも割れやすそうなバネルや、薄い筐体はどうみても「永遠のこわれもの」だ。

そして、現実に一番困るのは(その小ささ、薄さゆえの)バッテリーの消耗の速さだろう。

小一時間ほどメールしたりサイトをブラウズしただけで70%は残っていたバッテリーが30%を切りそうになるとか。

もしこれが携帯電話でなくて、ただの小型端末だったらそうは問題にはならないだろう。必要なとき電源を入れればいいだけだからだ。

しかし、携帯電話というものは(映画館や車中であるとかマナーと安全の問題はおいといて)常に電源を入れててナンボのもんでね。相手からの電話がいつかかってきてもいいようにしておかなければならないからだ。

iPadのようなタブレットとは決定的に違うのはそこだろう。(iPadを携帯電話契約している人もいるだろうが)

実際、自分がそうなのだが、タブレットだと、Wi-Fiでネットに繋がるところでタブレットの電源を入れて使っている分にはさほどバッテリーの消耗は酷くはない。10時間は使えるし、もちろん、電話は電話で使えるので、電話がかかってきてブラウジング中止みたいなことにもならない。いいことずくめなのだが。

それと購入コストのこともある。わたしの使っているタブレットだが、中古とはいえスマホの約6倍の大きさのバネルで3万以下。新品だと8万もするという某スマホの1/3である。

さて、本当に有用なのはどっちだ。スマホか、携帯とタブレットの二台持ちか。

そして、ここが大切なところなのだが、あなたはスマホの優位というものを人に対して説くことができますでしょうか。そこなんだよね。

「持ち運びの点でスマホでしょう」というのであれば、「そんな使い勝手の悪いもの持ち歩いて意味はあるのか」と言い返されるだけだ。残念なことだが。

アメリカのサイトにあったのだが、スマートフォン(ここではイコールiPhoneとしているが)の現在評価と今後の予測の中で、スマートフォンはまだ完成途上のツールであって、完成するまであと7〜8年を要するだろうという予測がされている。

自分もそんな感じがしている。現在のApple社ではどんなに頑張ってもその7〜8年を3〜4年には縮められないだろう。

なんでかというと、もうAppleにはスティーブン・ジョブズがいないからだ。

良くも悪くも、ああいう独善的で全てをコントロール出来る開発者がトップに君臨している企業でないと劇的な新商品は世に出ないものだ。

ジョブズの死は早すぎた。本当に惜しい人物を失ったものだと彼の死を悼む。

ここ20年Apple製品などまったく買ったことのないわたしがいうことではないかもしれないが。



iPhoneに限らず、スマホのバッテリー切れを解消する手立てならばなくもない。

街のあちこちにクルマのガソリンスタンドならぬ有料の「充電スタンド」を設置すればいいのだ。

可能なことなのである。

電話ボックスやらの公衆電話をつかえばいいのだから。

3分10円くらいの料金設定ならば利用者はかなりいるだろう。

料金の支払いには当然テレホンカードが使えるようにする。これでなかなか減らなかった、各家庭にあるテレホンカードの残数を一挙に減らすことができ、NTTにとっても経営改善になるはずなのである。

自分がこんなことを言うのは、電話ボックスの公衆電話をかなり頻繁に利用するからだ。

ときどき思うことなのだが、今でも電話についているISDNのジャック、あれには意味があるのだろうかということだ。

データ通信のためにわざわざ超亀速のISDNを(しかも金払って)利用する人がいるとは思えない。

ならばUSBの差し込みにしてしまい、金を支払えば充電の出来る充電ボックスに更新すればいい。

そして、それは全国的に数が減ってきた電話ボックスの立場を守ることでもある。

どうしても見逃しがちになるが、この日本には公衆電話がないと困るような生活弱者は沢山いるわけで、電話ボックスの数をこれ以上減らさないためにも、公衆電話、電話ボックスの利用価値を高めるというのは社会的にも求められていることなのである。