2011年5月20日金曜日

復興を阻む2つの要因+1

震災のあった3月11日から50日余り過ぎたつい先日のことだ。
「これから岩手に向かう」というボランティア一行と半日ほど行動をともにした。
聞けば「仙台や宮城県でのボランティア受け入れ体制が許容を超えてしまい募集を一時的に打ち切られた」というので、これから岩手に向かうのだという。

現地で作業中の自分からすると「なんじゃそりゃ全然人手足りてないのにそれはないだろう」というのが正直な感想。

だから、このような人たちと話をしていても、ありがたいという気持ちとともにどこか自分達の置かれた立場の情けなさというものを感じたりもした。

現地で作業中の自分が痛感することとは、一にも二にも「復旧の進捗」の実体というものである。

とにかく遅いのだ。むしろまだ何も本格的な復旧作業は始まってはいないと言ってもいいくらいだ。

確かに、4月7日に再び震度6強(7とも言われている)クラスの余震が起きているわけで、常に「大きな余震は起きるのだ」という前提で行動しなければならないとか、進捗を阻む大きな外的な(つまり批判をしてもしょうがない部分)要因もあった。

それを別にしても復旧の進捗を大きく阻んでいるものを三つ挙げるとすると、ひとつは福島で交通網(陸送)が遮断されて一向に回復しないということ。人・モノ・ソフト(技術)輸送のボトルネックになってしまっていることだ。つまり原発事故が福島から上に位置する宮城・岩手両県の復旧に大きく影響しているということ。

ふたつ目が、こちら側宮城県(つまり被災地)に対して国からの情報の開示というものがなされていないために「まず何をするべきなのか」逆に言えば、「今は手をつけなくてもいいから後回しで」のプライオマリ(優先順位)が決定できないということ。

三つ目はなんていうのか。政府の外交的な失策の結果が復旧全体のスピードを悪くしているということ。どういうことかというと、最初の段階で災害救助のために来てくれた海外からの支援隊(つまり軍隊)に対する「どこで何をしてほしい」という具体的な要請が中々でなかったために、彼らを現地で無為にを過ごさせてしまったそのツケを今になって払っているようなカタチになっていること。

ひとつの例として挙げるが、米軍はいつでも上陸可能スタンバイ状態で県知事でさえ米軍の上陸要請を国に上申していたのに、何故か政府は米軍の上陸に対しては認めようとしなかった。理由は「安全が確保できているかどうかわからないから。危険だから」だと。

じれた米軍機が勝手に仙台空港に着陸して勝手に滑走路を整備して使えるようしたとか、あるいは米軍ヘリが被災地の孤立した避難所に食料をボカンボカンという感じで投下して回ったいうのは有名なハナシだが、いやこれ自分も最近あのあたり(仙台空港)に行ってみて実感したのだが、この米軍の「勝手な行動」がなければ物資輸送の点から最初の段階での災害救助の結果はもっとひどいことになっていた可能性が高い。

実際に仙台空港を目の当たりにすると「よくもまあ」という感じがしてしまう。周囲はまだ瓦礫の山状態だというのに仙台空港の滑走路とその周辺だけはまるで別世界のようにキレイになっていたからだ。念のために付け加えておくが、最近になってそうなったというのではなくて、米軍機着陸直後にそうなっちゃったということなんだなこれが。

こういった「復旧のモザイク現象」ともいうべき光景をいくつも見てしまうと、どうしても自分などは「復旧を大きく遅れさせて、大きな障害になっているのはこの我々の日本の政府じゃないのか」という思いにも囚われてしまうのである。

なんていうのだろう。自分がこの復旧の遅れから感じ取ることとは、このままではただ指を咥えてじっとしているだけでは、これから先たとえば、3ヵ月後、本格的な夏の時期にはもっと悲惨な出来事が起きるのではないだろうかという暗い予感である。

そのひとつは感染症の蔓延である。とにかく除去作業に実際に携わった自分がいうのだ。間違いない。このまま復旧が遅れたままだと仙台を中心にした都市部には感染症が蔓延する危険が高くなってきた。これをまず阻止しないことにはどうにもならない。どうすればいいんだろう。国政選挙は当分のあいだ行われないというし。
(2011.05.10)

2011年5月19日木曜日

シンレッドラインat 被災地

被災地を面白半分で訪れて携帯で写真を撮ったり騒いだり場合によっては復旧作業の邪魔になるようなこと(たとえばクルマの違法駐車など)をする「ヤジ馬」観光客が急増しているという。「~という」じゃないな。実際自分も遭遇しているし。

自分はこういうヤジ馬に遭遇しても「しょうがねぇ」とすでにあきらめているところがある。正直こういうのにいちいちまともに反応していたらこころと体がもたないから。

なんていうのかねぇ。こういうヤジ馬がやってくるというのもまた地震、津波、原発事故、菅政権につぐ「災害のひとつ」なんだぐらいに捉えているところがある。

どうせ行くなら被災を免れた観光地あたりを楽しんで帰っていってほしいと思うところもある。それはある。しかしそんな「正論」を吐いてみても端からムダな感じの連中のようだし。

まあ来るなら来ればいい。しかし、まだ全然手付かずの場所に入り込んで怪我をしたとか病気になったとか、あるいはクルマがボコボコにされたとか現地で作業中の人間とけんかになって殴られたとかの文句とか弱音だけは一切吐かないで欲しいものだ。

これはこの「被災地」に長くいればわかることなのだが、普通の安全な場所と、そうではない一般人が立ち入ってはいけない場所の間には境界線というものが確実に存在する。

そっちからこっちに入ってきたならば自分の身の上に降りかかることすべては自分の責任になるの。それを感じとれないような人間は来ないほうが無難だな。

すべての世界に笑いはある。もちろん国会にも首相官邸にも

無茶苦茶なことを言ったり書いたりして結局自分の首を絞めるような愚か者は何も例の民主党所属の梶川広島県議だけではない。

このくらい酷いのは同じ民主党内にいくらでもゴロゴロしている。その中でも一二番を争うのは、やはり党代表であり首相でもある菅直人と前代表にしてやはり前総理の鳩山由紀夫になるのだろうか。笑って済ませられるものとそうでないものがある。

たとえば、先日国会の場でも取り上げられた小野寺五典議員の質問の中の最後
「(これだけ大きな災害があったならば)昔なら元号を変えるところだが今なら政権交代が必要だ」と述べたという発言主に関する質疑応答。


2004-10-23KAN

これなんか(質問した小野寺議員に対しても全方角的にも)悪いこととは感じるのだが、自分にはただのギャグにしか思えないのだ。たとえていうと、誰かを落とすために作った落とし穴に自分が嵌った人間を見たときに漏れ出るような冷笑の類である。

いや、本当ならばこれが国会の場だというのであれば「実はこれは菅首相、あなたが言ったことなんですよ」で(ギャグの)オチにされたのでは(国民のひとりとして)たまったもんじゃない。

本来ならば、ここから本当の意味での質疑応答が始まらなければ「国会の質疑応答」としてはおかしい。

というのも、この前後(2004年当時)菅直人の発言を並べてみればよくわかるのだが、菅直人が繰り返し述べているのは「政権交代」である。

要するに、当時菅直人は政権交代に結びつけられるものならば、なんでもかんでも、それこそ天災であろうが自民連合政権内の不始末であろうが何か起きるたびに「政権交代」を叫んでいたのである。

今自分が本当に知りたいのは菅自身は当時のこの発言を今でも正しいと思っているのか、それとも「軽はずみだった」あるいは「ある種の軽口として書いてしまった」と認識しているのか。そしてそれを反省しているのかである。

菅がそれをどう思っているのかについて彼自身の口からはっきり聞かないことには、この男が果たして首相としてこのまま職務につくべき人間なのかどうなのかの判断はつかない。

2011年5月10日火曜日

プロ野球を蝕むオカルティズム 楽天編

今日(5月8日)の試合も負けて対西武戦三連敗。やってはいけない地元での同一カード三連敗である。これをするチームはどこかに大きな根本的な問題を抱えていることが多い。
自分は今年はまだ一度も現地観戦はないのだが、それすら「残念なこと」ともちっとも思わない。
(一昨々日の金曜日なんて)試合のあったKスタ(宮城球場)のすぐそばを犬連れて散歩していた。
楽天イーグルスが勝てないのには誰が見てもはっきりとわかる理由がある。単純に点が取れないからだ。
これは誰のせいかといえば(昨年までの成績と照らし合わせればいいのだが)選手本人というよりも打撃コーチの責任である。あるいはそれを任せている監督の責任であり、フロントの責任でもある。
土曜日だったか昨日の日曜だったか、仕事仲間のひとりが仙台駅近くで解説者の駒田徳広氏を見かけたという。なんでも楽天ファンとおぼしき人たちとにこやかに談笑していたらしい。(元選手の)野球関係者の中にあって駒田がそういう気さくな人間だとはちっとも思っていなかったので意外な感じがした。
駒田(敬称略)といえば思い起こされるのは創設当初の楽天イーグルスの打撃コーチだったのを、開幕からの打撃不振の責任を取らされて開幕一ヶ月早々、二軍コーチに降格された過去を持つことだろう。
昨年も安部理コーチが打撃不振の責任をとるカタチで二軍育成コーチに降格している。
おそらく、だから再び楽天のフロントはもう一度この「降格・入れ替え処分」という宝刀を抜かざるを得ないことになるのでは。宝刀にしては抜きすぎだけどね。
にしても、選手とコーチとの間に吹くすきま風というか、まあはっきりといえば野手のコーチらに対する不信感というものはテレビでベンチ内を見ただけでもよくわかる。佐藤投手コーチのもとで一致団結した感じのする投手陣との温度差は歴然としている。
別のブログでも取り上げたことだが、問題の所在は礒部コーチよりもヘッドコーチ兼任の田淵幸一にあるだろうというのがもっぱらの楽天ファンの意見のようだ。
大体にして昨年も後半はその安部コーチのかわりに一軍のコーチとして帯同していた礒部コーチに責任があるはずもない。
田淵のどこがよくないか。それは打法の伝授とかではなくて、田淵が選手をよく見ていないからだろうと自分は思う。
じゃ田淵は何を見ているかというと、あいかわらず選手の血液型ばかりを見ているのだろう。
楽天イーグルスの打順(打線)のことを「オカルト打線」と呼ぶことに、もう自分はなんのためらいも感じなくなっている。
しかしそれに対して「それはちょっと違うぞ」的なことを言っている人がいる。
その人のはなしを聞いて自分は笑ってしまった。
田淵の血液型はAである。このA型タイプの人はむしろ専門職向きで、決して兼任でふたつの仕事を任せたりしてはいけないタイプなんだとさ。
つまり、血液型による性格診断(そんなアバウトなものがあっていいはずがないが)というものを一番よくわかっていない、あるいは実践していないのが田淵幸一自身だろうというのがその人の主張だからだ。
ここまでくると自分ももうただ笑ってあきらめるしかないなと思うだけだが。
さあ、どうするのかね楽天のフロントは。「頑張ろう東北!」をもじって「おまえがまず頑張れよ!東北楽天」と言われていることぐらいはもう耳に届いているはずだが。

2011年5月4日水曜日

祈りの方角にあるもの

今でもときどきなんだかよくわからないクレームが来る。
たとえばこれはだいぶ昔のことだけれども、自分が「大地震がこないように祈ってどうするんだ」と書いたことに対して「おまえは祈りを否定するのか」と文句を垂れてきた人がいた。

たぶん同じ人間だと思うのだが、来るコメント来るコメントでやたら「祈り」というものを強調してくるのだ。まるでこのかまたが「祈らない」ことを主張したり、あるいは「祈り」という行為を否定していると思い込んでいるようなのだが。

誰が「祈り」そのものを否定したりしているのか。よく読めよ。

自分が彼らのことを半分おちょくったように書いたのは、「(ジュセリーノのインチキ予言にある)大地震が来ないように祈りましょう」と言っていることに対して「それはいくらなんでもアホだろう」と書いたのだ。

何故インチキ予言に書かれている「大地震」がこないように祈るのか。大前提が間違っているだろう。そういうことを自分は言ったのだ。

私自身は人の「祈り」そのものを否定しようと思ったことは一度もない。
但し、無茶苦茶なことを「祈れ」というような人たちの言うことは否定するし、その無茶苦茶な祈りを強いる人たちの主義信条・思想そのものを全否定してやれと思ったことは何度もあった。

何故かというと、そういった破綻した思想・思惟・宗教は人を幸福にはしないからだ。危険なものだからだ。何が危険かというと、本来ならば人が避けなければならない「危機」に対する感覚そのものを失わせるからである。これは何が不幸だとか幸福とは何かとはまったく別の問題なのだ。

最近、もうホントにアタマが痛くなったことがあった。いろいろと考えることもあったのだが、まあ書いておくとするか。

「(事故の起きた)福島の原発に向かって愛と幸福のパワーを送りましょう」と言っているような人たちが仙台を中心としたところにいるのだということを何人の方から教えられた。

最初それを耳にしたときは正直全身のチカラが抜けましたね。いやマジで。中には半笑いで「ねぇ知ってる?」みたいな感じでまるでお笑いネタとして教えてくれた人もいたからね。

そういった「原発に愛を」とか言っている人たちが怖いのは、嘘や冗談でそんなことを言っているのではなくて彼らは本気だからだ。

確かに「祈り」とは人に強要するものではないし、何に対して祈るのかその祈りの対象を勝手に決められるようなものでもない。

しかし自分がこういう人たちのことを情けなく感じたり、あるいは「危険」を感じるのは、彼らのその祈りの先には「人間」がいないことだ。

ああもちろんオレだって祈りますよ。でもな、オレが祈るのは事故の起きた原発で自分の命・健康を賭して作業をする(消防庁その他の)作業員の無事を願うからだ。

自分のこの祈りの方角は確かに彼らと同じかもしれないが、それ以外に共通するものはなにひとつとしてない。まったくの別物である。