2006年1月25日水曜日

似非科学との対峙 12才少女の死を悼む  (再掲/重複)

前もちょっと書いたが、20年以上も前、自分は「波動」を研究しているというサークルに勧誘されたことがあった。当時の仕事仲間のひとりが以前所属していた広告制作会社のディレクターだったかプロデューサーの女性が自分のサークルへの入会を迫ってきたのである。
こうなったのには自分にも多少の責任があった。以前自分が語った「UFO目撃談」が伝言ゲームよろしくかなり歪んだ形で彼女らの耳に届いたようなのだ。

自分のそのUFO目撃談について説明するが、東京から仙台に車で移動中、那須塩原あたりで中空に浮く鉛色というか鈍く銀色に輝く物体を見たという体験である。ちなみに同乗していた他の5人は誰ひとりそれを目撃していない。
もっと言ってしまえば、その前の2日間、自分はほぼ不眠状態であった。UFOはその極度の精神状態がひきおこしたある種の幻覚であろうと思われる。

オカルト肯定派のなかには、「自分は見た」ということを根拠にしてオカルトの実在を説く人がかなり多い。かなり自己愛の強い考え方である。まず疑うべきはまず自分の視覚・聴覚といった感覚器官であるという第一鉄則は通用しないらしい。実際に、病気の苦しみや死への恐怖は幻視や幻聴といった幻覚を人に見させるものなのである。

自分はその「UFO目撃体験」を、安易なオカルト志向をやんわり否定するために例として挙げて何人かに語っていたのだが、伝言ゲームのどこかで後段が抜け落ち、ただ単に「UFOを見た」話として彼女らに伝わったようだった。

「もう無理しなくていいのよ」というその女性には、自分がそのUFO目撃体験をひたかくしにしているとの誤解があったようだ。
「ちゃいまんがな、わいは別に隠してんとはちゃうがな(´・ω・`)」
自分の中の似非関西人が彼女に突っ込みをいれた。自分がそれをあまり声高に言わなかったのはその場にオカルト肯定派がいたならばという可能性を考えての遠慮である。

「波動」というものが、その考え方の奥底にある危険性については何度となくいろんなところで書いてきた。重要なのは本来科学的な分野では平等に扱うべき「こころ」の問題に対してやたら優劣をつけたがることだろう。でなければ「高貴な波動」とか「悪い波動」などというフレーズがなんのためらいもなくポンポンと出てくるはずがない。どこかで大切なものが抜け落ちてしまっているのである。

あまりにも有名になってしまったが、「冷蔵庫の中の納豆」という話がある。
ある人が2つのパック入り納豆を冷蔵庫の中に置いた。ひとつには手かざしかなんかで良い波動を与え、もうひとつには悪い波動を与え、3ヶ月放置したという「実験」だ。

結果、良い波動を与えた納豆は醗酵が進み、悪い波動を与えた納豆は腐敗したのである。
そしてこれはまぎれもない「科学的な事実」なのである。

この話のレトリックにお気づきであろうか?
実は科学の分野では醗酵と腐敗はまるっきり同じ現象である。ただ単に人間に役に立つものを「醗酵」と呼び、役に立たないものを「腐敗」と呼び分けしているだけなのだ。また、納豆は冷蔵庫のような冷暗な場所にほっといても自然に醗酵(腐敗)してゆく。それだけなのだな。

問題なのは、それを良いとか悪いとかの二分化ディバイスメント(装置)を働かせる基準が「人間の感性」だということなのだが。

さて、その「サークル」の主催者の女史に呼び出しを食らった自分は、その女史に「波動」なるものの「科学的説明」を受けたのだが、その「科学的」と称するもののなかに多数あった矛盾点を挙げて「科学的な」説明を求めたのだが、結局彼女は口を濁して「それは今研究の分野だから・・・」「専門家の説明では・・・」と逃げるだけであった。彼女のいう「科学」というのは、あくまで自分達の内側だけで通用する一種の方言でしかなかったようだ。

私は業を煮やし最後に彼女に対してきつく迫ったのである。「何をやろうと構わないが自分達の活動のために『科学』という言葉は絶対に使うな」と。彼女と私のやりとりをそばで聞いていた何人かはそれで目が覚めたのか、後日ひとり抜けふたり抜けした。

さて、その後そのサークルはテナントビルを借り、「研究所」という看板を出したりして活動を続けていたのだが、あるときを境にその内部は変化していったようで、最後は主催者とふたりの女性だけの三人だけとなり、そのまま、『波動思想』を取り入れた新興宗教にまとめて入信してしまった。

簡単に言えば内ゲバである。ディスカッションを続けているうちにその『波動』に対する考え方の違いがあきらかになり、ふたつの派に分かれての深刻な対立から、ごそっと人間がまとめて抜けてしまったのだ。

どこかで聞いた話だとは思わないだろうか?そう、連合赤軍事件そのままなのだ。実際に人を殺すか殺さないかの大きな違いはあるが、本質的にやってることは同じである。

ジェイムス・ランディのオカルト叩きの本や、元FBI捜査官の回顧本によると、単なる趣味のニューエイジ系のサークルが質的に変化し、危険思想=カルトになるのは、まずまちがいなく「研究所」のような施設を持ったときからだそうだ。

リアルなエステート(不動産物件)を維持するめに金が必要になるからだ。そのために強い共通認識が生まれるのはいいのだが、異分子は排除され、どうしても思想は純化されてカルトになってゆくのである。

最近、ある波動系の人のHPを見ていて不謹慎ではあるが思わず笑ってしまったことがあった。友人達と研究所を立ち上げたときの苦労話を語っているのだが、「~まるでなんかの新興宗教と誤解されそうで~」とさらりと言ってのけているからだ。自分達が新興宗教をやっているという認識はゼロのようだ。実はこれこそが恐ろしいことなのだが。

こういった似非科学=宗教による犠牲者がまたも出た。重い糖尿病に苦しむ12才の少女がある宗教施設に送られ、絶対必要なはずのインシュリン注射をせずに放置されたのである。
逆算して今考えれば「なんて馬鹿なことを・・・」と思うであろう。誰でも。そういうまともな判断力を失わせてしまうのがカルトの恐ろしさなのである。だからと言って弁護する気にはなれないが、その死んだ12才の少女の母親もまた、娘の重病のために心神が普通の状態でなかったのだということは想像に難くない。

そしてこれはなにも「特殊な事」ではなく今でもどこかでこのような似非科学の衣をまとったカルトは心の弱った人に取り付き同じようなことをさせているのである。
『波動』という言葉を見て甘く考えてはいけない。第二のオウム事件、ライフスペース事件の芽は確実に残っているのである。



(リクエストにより再掲します)2006.01.21
(都合により重複です)2006.01.24

<初出『人生の一日』旧05.07.21>

「ニセ科学」とどう向き合っていくか? 日本物理学会、3月に松山でシンポ
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601050043.html(削除)

似非科学と宗教の狭間
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/321261.html


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