2006年1月25日水曜日

「水からの伝言」に耳を傾ける人たち  (重複)

「ニセ科学」とどう向き合っていくか? 日本物理学会、3月に松山でシンポ
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601050043.html(元記事は削除済)

この記事中に出てくる「水に優しい言葉をかけると美しい結晶ができる」と書いてあるのは
おそらく江本勝の一連の写真集のことだろう。

自分がまだ下北沢の事務所で仕事をしていたころだから99年(6・7年前)のことだと記憶しているが、事務所にいたアルバイトの女の子が「ヴィレッジ=ヴァンガードで売ってた」といって持ってきたのを見せられたことがあった。

出版社の名前が「波動教育社」というのもスゴいが、文章のあちらこちらに散見するアヤシさからこれらがいわゆる科学とは無縁の心霊写真やUFOの写真同様「捏造された」写真だなとは感じた。そのときは説明できなかったが。

あとでインターネットやなにやらで調べて、これらの写真が、氷が溶けたときに出来る「チンダル現象」であり、水の結晶というよりもやはり氷の(隙間に出来た)結晶(の抜け殻)と呼ぶほうがふさわしいと気がついたときにはほっとしたものだ。というか第二弾の写真集にはちゃんとそのことに言及されていることを知ったのは割と最近である。

むしろ問題にすべきは、水に「ありがとう」という優しい言葉を掛けると「美しい結晶」になり、バカヤロウなどの汚い言葉を掛けると「汚い結晶」になると言ってることだろう。
それではビートたけしが愛情を込めて「バカヤロウ」と言葉を掛けるとどうなるのだろうか、とか、水は紙に書かれた文字を読むというが、では紙に「きれいなウ〇コ」と書いてみせたら水はどう結晶化するのだろうかとか、山田花子の歌う「明日があるさ」を聞かせたらどうなるのだろうとか想像は膨らむばかりだ。

まあ冗談はさて置き、最近仙台の某大手書店に立ち寄ったときこれらの写真集が大々的に平積みにされ特集コーナーが組まれているのを見た。あまり良い気分ではない。文句を言う筋合いではないのだが。

こういう問題を取り扱う分野についてあれこれ言うと「無粋な奴」とか言われるのは承知の上であえて言わせてもらうが、こういった写真集の方がむしろ「人間の精神」であるとか「心の問題」を侮辱している行為である。本来もっとデリケートに扱わなければならない問題を、嘘っぱちの捏造写真にからめて語るほうがよっぽど人間の精神や心というものに対する背信的な行為だと言っているのだ、違うだろうか。

「精神」であるとか「こころ」について語るのは良いとして、なぜそこに「人の心に反応する水」であるとか「水の結晶」を持ち出さなくてはならないのだろう。自分の中にもある「精神」であるとか「こころ」さえ矮小化され語られているような不快感を覚える。

さらに、このような捏造された写真を「科学的」と称して、「美しい心を持ちましょう」とか道徳の教育に使うとすればそれは二重の意味で犯罪的な行為と言える。

秋田の伝統行事に「なまはげ」というのがあるが、「悪い子はいないか」と包丁を振りかざす鬼の存在が子供に対してしつけと教育になっているからといって「鬼は本当にいるんですよ」と真剣に包丁を振りかざし年に一度やってくる鬼の実在を触れ回っていると同じじゃないの。

いつの間に日本の教師供はここまでキケンな存在に落ち果てたのだろう。子供たちに語るべき事、言葉はもっとあるだろうに。邪推になるが、こういった写真集を使った方が楽だろうし、ある意味責任逃れにはなるな、ということだ。

今度冬季オリンピックの行なわれるトリノのヨハネ大聖堂教会には「キリストの聖骸布」と呼ばれるものがある。ゴルゴダの丘で磔になったキリストの遺体が包まれたと言われていた布だ。この布の科学的な分析(炭素14による測定だったか)が行なわれた結果、布自体は99%の確率で1200年代から1300年代に作られたものであることが今でははっきりしている。

だが、果たしてこの結果から「キリスト教」そのものが嘘っぱちであると説いた者はいただろうか?あるいはこの布がニセモノだと判明したからといってキリスト教を離れた信者はいたのだろうか?

そもそも、このニセの聖骸布がなにものであったとしても、キリスト教そのものに対する人々の考え方は少しもかわっていないのである。糾弾されるべきはこのニセもの聖骸布を布教の材料に利用するためにウソの鑑定をした学者である。あるいはウソと知りつつそれを隠したままキリストの奇跡を口にする人たちであろう。

私からすれば、これらの水の結晶写真を「科学的」であると宣伝したり、盲信したりして「人間のこころ」にからめて語る人たちこそキリスト教における背信者と同じにしか見えないのだが。

元記事全文(元記事削除のため記載)

日本物理学会(約1万8千人)が3月に松山市の愛媛大で開く学会で、「ニセ科学」について議論する。これまでは「相手にしない」姿勢だったが、「社会的な影響は無視できない」として、シンポジウムを開いてどう対応すべきか考える。研究者が集まる学会の場でニセ科学がとりあげられるのは珍しい。 / シンポを企画した田崎晴明・学習院大教授(統計物理学)によると、最近のニセ科学は「科学らしさ」を装っている場合が多く、オカルトや心霊現象にはだまされない人でも、「科学」として信じてしまう場合が少なくない。ニセ科学に詳しい菊池誠・大阪大教授(同)によると、「水に優しい言葉をかけると美しい結晶ができる」などとする珍説が、小学校の授業で紹介されている。/ シンポは学会最終日の3月30日に開催。「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」をテーマに、根拠がはっきりしない「健康にいい水」などの実例を紹介し、それらを生み出した社会的要因を考える。/日本物理学会の佐藤勝彦会長(東京大教授)は「ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ」と話す。 /「ニセ科学」とは、(科学と擬似科学の境界付近にある位置づけの微妙な営みのことではなく)科学的に誤り(ないしは無意味)であることが明白であるにもかかわらず表面上は科学を装っている営みを指します。「ニセ科学」は、物理学の研究にはほとんど何の影響もないでしょうが、広い意味での科学教育を考えたとき強い影響力をもつおそれがあると考えています。/このシンポジウムでは、いくつかの典型的な「ニセ科学」の事例を紹介していただきながら、私たち物理学者が「ニセ科学」とどう向き合っていけばよいのかを考えるきっかけを作りたいと思っています。

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