2006年1月22日日曜日

フリップ&イーノ 次のWINDOWSの起動音はこの中にある


キング・クリムゾン活動停止中のロバート・フリップとロクシー・ミュージックを脱退したイーノが、マッチング・モール2ndアルバム「リトル・レッド・レコード」レコーディング中に知り合い意気投合(意思投合かな、このふたりの場合)して作られた第一弾「ノー・プッシーフッティング」(左)とその翌年にレコーディングされた「イブニング・スター」(右)の二枚。

全体的に掴み所のない単音の繰り返しで、まともに聞こうとしたらイライラするか疲れるだけだと思う。自分は執筆中のBGMとしてイーノのソロアルバムはよく聞いていたが、このコラボによる二枚は避けていた。

仕事の質にもよるだろうが、効率とかスピードを求められる仕事のBGMとしては向いていない。「イブニング・スター」というタイトルから夜向きかというとそうでもなくむしろ朝まだ意識が朦朧としてはっきりしないときにこのCDを聞いていると「はやくシャキッとしなきゃ・・・」と思うことがあったので、そういう聞き方、使い方の方が正しいのかもしれないな。それは今もかわっていないと思う。

はじめてこの二枚を聞いたのは高校三年のころだったか。

そのころ自分が聞いているロックというジャンルの音楽のなかで―そのロックが内包しているいくつもの要因の中で―自分の中に一番強く訴えかけてきたのはハード・ロックの激しいビートであり、その真逆とも呼べるほとんど無音に近いような静謐(せいひつ)な「間」というようなものであったと思う。

ちょうどこのころ、親しかった女の子が病気に倒れ、明日をも知れぬ状態であったことと強く関係しているかもしれない。「なんとかしてあげたいが何も出来ない」自分というものに腹を立てて、かなり自暴自棄な日々を過ごしていた。

そんな自分にとってこの二枚は聞いてイライラするだけだった。まあなんというのか裸の自分と強制的に向き合わされる、自分の本質というものについて自省的にさせられてしまうからだろう。

というよりもそれは自分だけでなく、当時のほとんどの人間がそうだったのである。このフリップとイーノという当時ロック界の二大インテリが提示したこの音楽の形は先進すぎて、その意味すら理解し難いものであった。自分が多少なりとも理解できるようになったのはもっとあとのことである。

イーノの説明によると、聴き手の環境の中で生成された偶然がもたらす結果が重要なのだそうだ。最初は自分もそれこそ「なにそれ?」だったが、それこそ、「ある偶然の出来事」がきっかけでイーノの言葉について考えるようになった。

「ノー・プッシーフッティング」の音には、それこそタイトルどうり人間よりも猫のほうが異様な反応を示すのだ。昔あるとき、二階建ての二階の部屋でこのレコードから落としたテープ(時代を感じるな)を流していたら、窓の外から見える屋根の上で日向ぼっこをしていた猫どもが次々むくむくと起き上がり互いに顔を見合わせ不快感を露わにしてその場を去っていったのである。猫害にお悩みの方にはお奨めの一枚である。

20数年前、イーノのビデオアート展が赤坂で行われたときにイーノの講演会も催された。そこでイーノは黒板を使ってこの「不規則性という偶然がもたらす音楽」ついて珍しく熱弁をふるっていた。不規則性と偶然と、それを取り巻く環境、音楽(装置)が生み出す効果について。そこで彼がモチーフとして例にあげたのがこのフリップとのコラボによる二枚のアルバムだった。イーノにとってフリップの出すギターの音こそが当時それを具体的に表現するにもっとも適した身近なモチーフであったのだと。

それから10年後、WINDOWS’95という世界的にバカ売れしたOSの起動音を手がけたのはほかの誰でもなくこのイーノであった。再起動を何度も繰り返し、あの起動音を繰り返し聞いてて不快になった人も多かろう。自分もあの起動音を何度となく不快な気分で聞き、そしてふとあの時の猫どもを思い出した。

結局、音が不快なのではなく、再起動しなければならない事態が不快なのであり、ただ単に聞く側の精神状態を反映しているだけなのだと。20年掛かってやっとそこまでたどり着いたわけだ。
で、今自分のところにとんでもないニュースが飛び込んで来た。(矢追純一かよ)次のWINDOWSの起動音を手がけるのが一方の雄ロバート・フリップだというのだ。ああ、今すでに自分の頭の中にはあのギターのヒョロロローというという新しい起動音が鳴り響いているくらいだ。

いまからこの二枚のCDを聞いておき、新しいWINDOWSの起動音に慣れておくというのはどうだろう?損はしないと思うが。

するかやっぱり。
              06.01.22.17:30