2011年5月4日水曜日

祈りの方角にあるもの

今でもときどきなんだかよくわからないクレームが来る。
たとえばこれはだいぶ昔のことだけれども、自分が「大地震がこないように祈ってどうするんだ」と書いたことに対して「おまえは祈りを否定するのか」と文句を垂れてきた人がいた。

たぶん同じ人間だと思うのだが、来るコメント来るコメントでやたら「祈り」というものを強調してくるのだ。まるでこのかまたが「祈らない」ことを主張したり、あるいは「祈り」という行為を否定していると思い込んでいるようなのだが。

誰が「祈り」そのものを否定したりしているのか。よく読めよ。

自分が彼らのことを半分おちょくったように書いたのは、「(ジュセリーノのインチキ予言にある)大地震が来ないように祈りましょう」と言っていることに対して「それはいくらなんでもアホだろう」と書いたのだ。

何故インチキ予言に書かれている「大地震」がこないように祈るのか。大前提が間違っているだろう。そういうことを自分は言ったのだ。

私自身は人の「祈り」そのものを否定しようと思ったことは一度もない。
但し、無茶苦茶なことを「祈れ」というような人たちの言うことは否定するし、その無茶苦茶な祈りを強いる人たちの主義信条・思想そのものを全否定してやれと思ったことは何度もあった。

何故かというと、そういった破綻した思想・思惟・宗教は人を幸福にはしないからだ。危険なものだからだ。何が危険かというと、本来ならば人が避けなければならない「危機」に対する感覚そのものを失わせるからである。これは何が不幸だとか幸福とは何かとはまったく別の問題なのだ。

最近、もうホントにアタマが痛くなったことがあった。いろいろと考えることもあったのだが、まあ書いておくとするか。

「(事故の起きた)福島の原発に向かって愛と幸福のパワーを送りましょう」と言っているような人たちが仙台を中心としたところにいるのだということを何人の方から教えられた。

最初それを耳にしたときは正直全身のチカラが抜けましたね。いやマジで。中には半笑いで「ねぇ知ってる?」みたいな感じでまるでお笑いネタとして教えてくれた人もいたからね。

そういった「原発に愛を」とか言っている人たちが怖いのは、嘘や冗談でそんなことを言っているのではなくて彼らは本気だからだ。

確かに「祈り」とは人に強要するものではないし、何に対して祈るのかその祈りの対象を勝手に決められるようなものでもない。

しかし自分がこういう人たちのことを情けなく感じたり、あるいは「危険」を感じるのは、彼らのその祈りの先には「人間」がいないことだ。

ああもちろんオレだって祈りますよ。でもな、オレが祈るのは事故の起きた原発で自分の命・健康を賭して作業をする(消防庁その他の)作業員の無事を願うからだ。

自分のこの祈りの方角は確かに彼らと同じかもしれないが、それ以外に共通するものはなにひとつとしてない。まったくの別物である。

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