「オーラの泉」の特番をやってた
というか特番やってんじゃん。誰か教えてよね。
レギュラーを見てないのでこの番組の基本スタンスはわからないのだが、霊能力者(でいいだろう)の江原啓之と美輪明宏がゲストの前世を読み取り、あれやこれやする内容。害がないといえばそれまでだが、言わせてもらえれば、「オーラ」とか「前世」とか持ち出さなくても成立するカウンセリングの番組だな。
さらに言わせてもらえれば、全然的外れじゃん。会話の中で修正してさも当たっているかのように見せかけているだけで。どう見ても能力者は美輪明宏のほうだ。
誤解のないよう、あくまで「一般論」として言うのだが、自分が相談を受けた霊能力詐欺の手口を思い出す。ノストラダムスの予言もそうだが、「当たった」と思わせるのにはテクニックがある。それは現実離れしたこと、抽象的な事をなるべく数多く言うこと。占う(霊視というのだそうだ)相手からなるべく多くの発言を引き出すこと、そして最も重要なのは、霊能力者のお告げがさも当たってるかのように解釈してくれる人間をそばにはべらせることだ。ノストラダムスの場合はその役を受け持ったのが五島勉ということになるわけだ。
「あなたの前世は古代ローマの戦士」と言われればそうかと納得出来るかもしれないが、「あなたの前世はアフリカの草原で暮らしていた普通の男」と言われたらなんとなく嫌だよな。霊能力者の知識と想像力を反映してるだけなんだ。所詮。告げられる前世なんてそんなもんだ。でも、人類の歴史というものを振り返ってみれば――前世なんてものがあるとすればだが――「アフリカの草原に住んでいた普通の人間」があらかたほとんどなわけで(笑)、前世を占った結果が、王女とか戦士とか神官とか吟遊詩人とかヘンな職業ばかりなのは確率的に絶対おかしなことなのだ。
あえて戦士とか神官とか吟遊詩人とか持ち出すのならせめてもっとヨーロッパや世界の歴史を勉強してからにして欲しいものだと思うがな。
で、私から言わせればこの「オーラの泉」で行われているのは、女子ごのみに甘く仕上げた「○○ごっこ」レベルに過ぎない。○○に入るのは「カウンセラー」だったり「心理分析」だったりするわけだな。
「それが人を幸福にするのであればなんだっていいじゃないか」という向きもあるだろう。その意見には一割は賛成だが九割は反対だ。というのもこの日本に自分の発言に対し全責任をまっとうしている自称『霊能力者』がまったくいないからだ。というかたぶんこれからも出現しないだろうな。
現実、この番組内ではないが、江原啓之は自ら相矛盾するような発言を繰り返し
気がつかずにいる。
無駄におしゃべりな霊能者というのも愚かな霊能力者同様、害毒以外なにものでもないのだ。
こんな番組地上波テレビで流すなよな。何回痛い目に会えば目が覚めるんだか・・・
とかなり呆れている自分がいる。
0512242356
2005年12月24日土曜日
「オーラ」とは
キルリアン写真といわれるものはあるがオーラの存在を証明したものはまだない。というか、まずなによりも「オーラ」については定義をはっきりさせておかないとまとまった話にならないわけで。
「オーラの泉」という番組があるらしい。らしいというのはまだ一度も見たことがないからだ。いや、番宣ぐらいは見たことありますけど。
メル友のみんなからは「アレどうよ?」と感想を聞かれるのだけども、まだ一度も見てないのでなにも言えない。というか番組タイトルに「オーラ」を入れた時点ではっきりいってダメ番組っぽい臭いが漂ってきている。
オーラを「生体のエネルギー(の一種)」と捕え、様々な研究がなされていることはもちろん知ってはいるが、だとすれば逆に説明のつかないことが多いのも現状で、そして厳全とした事実なのだが。この「オーラの泉」という番組がどういう意図で作られているのか、自分はあまり期待はしていない。
0512240429
「オーラの泉」という番組があるらしい。らしいというのはまだ一度も見たことがないからだ。いや、番宣ぐらいは見たことありますけど。
メル友のみんなからは「アレどうよ?」と感想を聞かれるのだけども、まだ一度も見てないのでなにも言えない。というか番組タイトルに「オーラ」を入れた時点ではっきりいってダメ番組っぽい臭いが漂ってきている。
オーラを「生体のエネルギー(の一種)」と捕え、様々な研究がなされていることはもちろん知ってはいるが、だとすれば逆に説明のつかないことが多いのも現状で、そして厳全とした事実なのだが。この「オーラの泉」という番組がどういう意図で作られているのか、自分はあまり期待はしていない。
0512240429
2005年12月23日金曜日
2005年12月19日月曜日
ノストラダムスの預言の訳について
ノストラダムスの預言の訳について
12月15日の「ノストラダムス」の項で触れた行交韻について質問を受けた。
四行詩の一行目と三行目 二行目と四行目が韻を踏む形式を行交韻という。
第一集一番の詩を例にとって説明しよう。
Estant assis de nuict secret estude
Seul repose sus la selle d'aerain:
Flambe exigue sortant de solitude,
Fait proferer qui n'est a croire vain.
深夜、秘密の書斎に居で下り
ひとりこころ静かに青銅の台に向わん
孤独より細き炎立ち上り
信じることが無駄ではない事象を語らん
(S氏訳)
これが行ごとに訳した遂語訳といわれるものでさらに平易な日本語にすると
夜中にひとり書斎で、
青銅の占い台にじっと向かっていると、
孤独から立ち上る小さな炎が、
信じることが無駄ではない確かな未来を(私に)語りかける
ぐらいがよいだろう。
交韻の法則で一行目と三行目のそれぞれestudeとsolitudeが二行目のd'aerainと vain がそれぞれ同じ音で終わっているのはわかると思う。
まあこれでもずいぶんとわかりやすい訳ではあるが、それでも解りにくい部分がある。「孤独より細き炎立ち上り」「信じることが無駄ではない事象~」あたりがちょっと苦しい。そこで、一行目と三行目 二行目と四行目を同じ行目として括ると
Estant assis de nuict secret estude/Flambe exigue sortant de solitude
Seul repose sus la selle d'aerain/Fait proferer qui n'est a croire vain
となるが、立ち上る細き火 Flambe exigue 夜 de nuict で flambe de nuit(夜の明かり→月星の輝き)という詩語が、そして 青銅の占い台に向かう la selle d'aerain 信頼が空虚 croire vainでla selle croire vain d(e)aerain →「確かな空間に現れた信じるべき未来が出る」という言葉になるのだ。同じく、de solitudeも、「孤独」よりも「深夜になってこそ生じた闇」という意味合いで訳せる。つまり、深夜ひとりで書斎にいるからこそはじめて見えてくる事象というものを書き残すのだという占星術師としての立場からの決意表明ととりたい。
これを踏まえて訳すと
深夜書斎でひとりでいると
真闇ゆえ輝く光りである月星が占いの台の上に、
私に信じことが無駄ではない
確かな未来を告げるのである
(拙訳)
となるのだ。このほうが判り良いでしょ。
ちなみにブランダムール版:高田・伊藤和訳だと
闇夜に密かに書斎におりて/青銅の机にひとり静かに座れば
孤独より立ちのぼる細い明かりは/信じることが無駄ではないことを語る
(預言者が)夜中に書斎で/ひとりぽつねんと青銅の椅子にじっと座っていると、
孤独から生じる細い炎が、/信じても無駄ではない事柄を(預言者に)言わしめる。
となるわけだが。
とまあ遂語訳を取るべきか交錯韻を考慮した訳にすべきかはどちらが正しいとかではなく
一種の哲学というかポリシーの違いなのだが、意味不明の遂語訳よりは判りやすい交錯韻を、というのが私が提唱した方向性であったのだ。
ていうかすごい(バカバカしい)でしょ? ∞
12月15日の「ノストラダムス」の項で触れた行交韻について質問を受けた。
四行詩の一行目と三行目 二行目と四行目が韻を踏む形式を行交韻という。
第一集一番の詩を例にとって説明しよう。
Estant assis de nuict secret estude
Seul repose sus la selle d'aerain:
Flambe exigue sortant de solitude,
Fait proferer qui n'est a croire vain.
深夜、秘密の書斎に居で下り
ひとりこころ静かに青銅の台に向わん
孤独より細き炎立ち上り
信じることが無駄ではない事象を語らん
(S氏訳)
これが行ごとに訳した遂語訳といわれるものでさらに平易な日本語にすると
夜中にひとり書斎で、
青銅の占い台にじっと向かっていると、
孤独から立ち上る小さな炎が、
信じることが無駄ではない確かな未来を(私に)語りかける
ぐらいがよいだろう。
交韻の法則で一行目と三行目のそれぞれestudeとsolitudeが二行目のd'aerainと vain がそれぞれ同じ音で終わっているのはわかると思う。
まあこれでもずいぶんとわかりやすい訳ではあるが、それでも解りにくい部分がある。「孤独より細き炎立ち上り」「信じることが無駄ではない事象~」あたりがちょっと苦しい。そこで、一行目と三行目 二行目と四行目を同じ行目として括ると
Estant assis de nuict secret estude/Flambe exigue sortant de solitude
Seul repose sus la selle d'aerain/Fait proferer qui n'est a croire vain
となるが、立ち上る細き火 Flambe exigue 夜 de nuict で flambe de nuit(夜の明かり→月星の輝き)という詩語が、そして 青銅の占い台に向かう la selle d'aerain 信頼が空虚 croire vainでla selle croire vain d(e)aerain →「確かな空間に現れた信じるべき未来が出る」という言葉になるのだ。同じく、de solitudeも、「孤独」よりも「深夜になってこそ生じた闇」という意味合いで訳せる。つまり、深夜ひとりで書斎にいるからこそはじめて見えてくる事象というものを書き残すのだという占星術師としての立場からの決意表明ととりたい。
これを踏まえて訳すと
深夜書斎でひとりでいると
真闇ゆえ輝く光りである月星が占いの台の上に、
私に信じことが無駄ではない
確かな未来を告げるのである
(拙訳)
となるのだ。このほうが判り良いでしょ。
ちなみにブランダムール版:高田・伊藤和訳だと
闇夜に密かに書斎におりて/青銅の机にひとり静かに座れば
孤独より立ちのぼる細い明かりは/信じることが無駄ではないことを語る
(預言者が)夜中に書斎で/ひとりぽつねんと青銅の椅子にじっと座っていると、
孤独から生じる細い炎が、/信じても無駄ではない事柄を(預言者に)言わしめる。
となるわけだが。
とまあ遂語訳を取るべきか交錯韻を考慮した訳にすべきかはどちらが正しいとかではなく
一種の哲学というかポリシーの違いなのだが、意味不明の遂語訳よりは判りやすい交錯韻を、というのが私が提唱した方向性であったのだ。
ていうかすごい(バカバカしい)でしょ? ∞
2005年12月16日金曜日
芸能人女子フトサルリーグ
だいたひかるに「マジ過ぎて引く」と揶兪されてしまったハロプロ(モー娘。)のフトサル。
しかしマジなのは何もハロプロだけではない。野田社長(サンズ代表)も講談社も集英社もホリプロもエイベックスも皆かなり本気のようだ。
スカパーで始まった「スフィア・リーグ」のダイジェストを見て、自分は己の無知と偏見を恥じた。参加したチーム全て真剣でちゃんとした試合になっているし、レベルの高いエンターテイメントとして成立しているのだ。技術的にも、約七割の選手はちゃんとボールが蹴れている。たかが七割というなかれ。
普通の高校生男子あたりにあの小さなフトサル球を蹴らせてもちゃんとまともに蹴れるのは三割ぐらいなんだから。
しかもフトサル特有の攻守の切り替えの早さについてゆくのは並大抵ではない。フトサルにはサッカーとはまた別の難しさがあるのだ。半分以上のチームが、かなり高度な攻撃の組織プレーを身に付けてる。
また、ハロプロ以外のチームにも才能のある『スター』が生まれるなど、規模はともかく93年にJリーグが誕生したときと同じような熱気に溢れているのだ。(スフィア・リーグはれっきとしたJFA傘下団体)
特に、野田社長のサンズのチーム「カレッツァ」のエース小島くるみや、講談社のチーム「ミスマガジン」の「世界でたったひとりの眼鏡っ子キーパー」こと時東あみ、集英社の「YJシューターズ(監督が高橋陽一w)」のロケット内蔵フォワード松原渓などはルックスだけでなくプレーでも客を呼べる可能性があり素材としても楽しみである。
確かに、運営や興業の数(京名阪のみ6回)あまりに片寄ったファン層など先行を不安視する声は大きい。しかし、自分は目からウロコが落ちたような気がしたのでしばらく暖かい目で見ていたいという気がしているのだな。
05.12.16.06:09
追記
今読み返すと気恥ずかしさと不思議な感慨のある文章。
その後「スフィア・リーグ」はモー娘。のチーム(ガッテス)の脱退とかいろいろあってさほどの盛り上がりに欠けるような状況に落ち込んでいる。残念でしかたがない。
あとここで取り上げた小島くるみであるが、何故かその後、宮城ローカルのスポーツ番組のアシスタントとして結構頑張っている。
実は自分も某所(なにも隠す必要もないな、仙台駅構内とか宮城球場です)でご本人を何度か見かけたりしている。実際とても可愛らしい子でなんか得したという感じがした。(よくやった仙台放送、みたいな)
時東ぁみについてはいうまでもないだろう。こちとらの予想を裏切る大活躍ぶりである。
あと、松原渓は、なにやっているんだろうね。イマイチぱっとしていない。ちょっとそれだけは残念。
自分的には一番売れるのではないかと予想していただけに。
グラビアアイドル、女優としてだけではなく、なんか「登山アイドル」みたいな感じでブレイクしてくれないかね。ほかに誰もいないジャンルだし血統的環境的にもうってつけの人材だし。
頑張れ松原渓。 公式ブログ
ウィキペディア「松原渓」
しかしマジなのは何もハロプロだけではない。野田社長(サンズ代表)も講談社も集英社もホリプロもエイベックスも皆かなり本気のようだ。
スカパーで始まった「スフィア・リーグ」のダイジェストを見て、自分は己の無知と偏見を恥じた。参加したチーム全て真剣でちゃんとした試合になっているし、レベルの高いエンターテイメントとして成立しているのだ。技術的にも、約七割の選手はちゃんとボールが蹴れている。たかが七割というなかれ。
普通の高校生男子あたりにあの小さなフトサル球を蹴らせてもちゃんとまともに蹴れるのは三割ぐらいなんだから。
しかもフトサル特有の攻守の切り替えの早さについてゆくのは並大抵ではない。フトサルにはサッカーとはまた別の難しさがあるのだ。半分以上のチームが、かなり高度な攻撃の組織プレーを身に付けてる。
また、ハロプロ以外のチームにも才能のある『スター』が生まれるなど、規模はともかく93年にJリーグが誕生したときと同じような熱気に溢れているのだ。(スフィア・リーグはれっきとしたJFA傘下団体)
特に、野田社長のサンズのチーム「カレッツァ」のエース小島くるみや、講談社のチーム「ミスマガジン」の「世界でたったひとりの眼鏡っ子キーパー」こと時東あみ、集英社の「YJシューターズ(監督が高橋陽一w)」のロケット内蔵フォワード松原渓などはルックスだけでなくプレーでも客を呼べる可能性があり素材としても楽しみである。
確かに、運営や興業の数(京名阪のみ6回)あまりに片寄ったファン層など先行を不安視する声は大きい。しかし、自分は目からウロコが落ちたような気がしたのでしばらく暖かい目で見ていたいという気がしているのだな。
05.12.16.06:09
追記
今読み返すと気恥ずかしさと不思議な感慨のある文章。
その後「スフィア・リーグ」はモー娘。のチーム(ガッテス)の脱退とかいろいろあってさほどの盛り上がりに欠けるような状況に落ち込んでいる。残念でしかたがない。
あとここで取り上げた小島くるみであるが、何故かその後、宮城ローカルのスポーツ番組のアシスタントとして結構頑張っている。
実は自分も某所(なにも隠す必要もないな、仙台駅構内とか宮城球場です)でご本人を何度か見かけたりしている。実際とても可愛らしい子でなんか得したという感じがした。(よくやった仙台放送、みたいな)
時東ぁみについてはいうまでもないだろう。こちとらの予想を裏切る大活躍ぶりである。
あと、松原渓は、なにやっているんだろうね。イマイチぱっとしていない。ちょっとそれだけは残念。
自分的には一番売れるのではないかと予想していただけに。
グラビアアイドル、女優としてだけではなく、なんか「登山アイドル」みたいな感じでブレイクしてくれないかね。ほかに誰もいないジャンルだし血統的環境的にもうってつけの人材だし。
頑張れ松原渓。 公式ブログ
ウィキペディア「松原渓」
2005年12月15日木曜日
これもまた殉職
最後に仰木彬監督を間近でみたのは、今年9月の楽天=オリックス最終カードだから、わずか3ヶ月前ということになる。
誰が見ても体調不良は明らかで、サングラスの奥、目は落ち窪み力というものが感じられなかった。
自分が仰木さんと初めて話をしたのは思い起こせばもう30年も前のことだ。
ここフルスタ宮城の前身である「宮城球場」でだった。
当時宮城球場のブルペンは、神宮みたいに両サイドのだだっ広いファールゾーンにあって、自分は試合前によく、そこで先発投手の投げる球を間近で見るのを楽しみにしていた。
当時の杉浦投手コーチや岩木コーチからは、すでに何度か声を掛けていただくようになっていた。
その流れで、守備コーチだった仰木さんにも顔を覚えられて、金網越しにお声を掛けて頂いたのだ。
そのカード、つまりロッテ-近鉄戦ということだが、近鉄は二連敗していた。その三連戦の三戦目ということだが
向こうから、つまり仰木さんのほうから「キミ、三日続けて来てるんか…」声を掛けられたのである。
自分は相当舞い上がってしまい、そのとき何と返えたかとか、そのあと何を話したかは全然覚えていない。
しかし、あの時仰木さんが声を掛けてくれたおかげで、その後ずっと自分は近鉄ファンでいることが出来たようなものなのだ。(その直前自分はちょっと不愉快な光景を目撃していた)
昨年、新生オリックスバファローズの監督の要請を受けた仰木さんは、自分の深刻な病状というものは知っていたのだろうと思う。
オリックスという会社、球団に対しては言いたいことは山のようにある。
が、今はただ冥福を祈るだけだ。
05.12.15.04:35
誰が見ても体調不良は明らかで、サングラスの奥、目は落ち窪み力というものが感じられなかった。
自分が仰木さんと初めて話をしたのは思い起こせばもう30年も前のことだ。
ここフルスタ宮城の前身である「宮城球場」でだった。
当時宮城球場のブルペンは、神宮みたいに両サイドのだだっ広いファールゾーンにあって、自分は試合前によく、そこで先発投手の投げる球を間近で見るのを楽しみにしていた。
当時の杉浦投手コーチや岩木コーチからは、すでに何度か声を掛けていただくようになっていた。
その流れで、守備コーチだった仰木さんにも顔を覚えられて、金網越しにお声を掛けて頂いたのだ。
そのカード、つまりロッテ-近鉄戦ということだが、近鉄は二連敗していた。その三連戦の三戦目ということだが
向こうから、つまり仰木さんのほうから「キミ、三日続けて来てるんか…」声を掛けられたのである。
自分は相当舞い上がってしまい、そのとき何と返えたかとか、そのあと何を話したかは全然覚えていない。
しかし、あの時仰木さんが声を掛けてくれたおかげで、その後ずっと自分は近鉄ファンでいることが出来たようなものなのだ。(その直前自分はちょっと不愉快な光景を目撃していた)
昨年、新生オリックスバファローズの監督の要請を受けた仰木さんは、自分の深刻な病状というものは知っていたのだろうと思う。
オリックスという会社、球団に対しては言いたいことは山のようにある。
が、今はただ冥福を祈るだけだ。
05.12.15.04:35
2005年12月12日月曜日
片寄った見方ではあるが
TVでダイエットを取り上げると視聴率が良いようで。
自分も今、体重が76キロ近くあってBMIとかで言うと10キロ近い体重超なのだ、実は。身近に体重増を指摘してくれる人がいないせいもあるが、4年前の1月に52キロしかなかったことを考えると今の体重はとんでもない肥満なんだよね。
でもダイエット関連のTV番組にはほとんど関心がない。無理して痩せるつもりはさらさらないからな。日曜の夜九時にやってる「あるある~」というやつもあまり見ない。ただ時々勝手に録画されていてそれ見ることがある。キーワードのひとつが「伊集院光」らしいのだな。
伊集院光はこの番組の準レギュラーらしい。確かに、テーマがダイエットのときにはうってつけなのかもな、一般的にはいわゆる「デブタレ」のひとりとして重宝されているし。
で今回の番組のタイトルが「タイプ別ダイエット」。体質別に効果的なダイエット方法というものがあって、それを間違うと痩せないよ、とあいかわらずのお説教を垂れてくれるわけだが、見ているうちに気分が悪くなった。
世間で今「寒天ダイエット」なるものが漫延していることはなんとなく知っていた。10月ころだったかか、必要があって棒寒天を買いに行ったのだが何処行っても売り切れだったからだ。
名前出しても差し支えなさそうな大型スーパーを何軒も回ったんだが何処にも棒寒天を売っていないのだ。店員に聞いたら、ダイエット食品としてブームになっていて品薄状態なのだと言う。粉寒天はあるというのにだ。
案の定、番組中に司会者が「この番組が火をつけたと言っても過言ではない」と言いきっていた。
腹が立ったね、なんなんだろこの得意気なもの言い。しかも大事な部分で明らかな嘘をついているというのにだ。
自分の知識でだが、ダイエット目的ならば寒天が棒寒天であろうが粉寒天であろうが大差ないはずなのだが。
もしこの番組で「棒寒天」の方がダイエット効果が高いと言っていたとすればそれは単純に固まり易さとか食感の違いくらいだろう。
今回の番組では、寒天やら番組で取り上げた食品でのダイエットで効果が出ないかった過去のモニターに対して別の食品ダイエット方法を試させ、さも効果が出たかのようなことを喧伝していたのだが、またもやそれが本当に医学的科学的に裏付けされた結果なのかは明らかにはされてなかった。
いや簡単なことなんですよ、試験者を毎日医者に診てもらい、食事量(摂取カロリー)の増減や運動量をチェックすればいいんだから。
「医学的にちゃんとしている」と断言するならそのくらいは明らかにしてほしいものだなと思った。しかし今回の番組では棒寒天ではなく粉寒天を勧める気弱なモデファイぶりには少し笑わせてもらった。まず最初に棒寒天ばかりを強調した誤りについては訂正はなくスルーしたまま。まあこの辺は所詮バラエティだししかたないか。
それよりなにより害があるなぁと強く思うのは「食品によるダイエットの弊害」そのものについての方だ。
やはりいまだに多くの日本人には「痩せる食材」が存在するという幻想があるようだ。
はっきりいうけどそんなもんありません。
あるとすれば肥満の要因を遅らせたり、阻止する成分を多く含んだ食材ということだろう。
いきなり酢を飲みだしたりしても痩せはしない。順番からいえば、運動により疲労した体内で脂肪を燃焼するために酢の主成分であるクエン酸などが効果的というだけであって酢そのものに痩せる効果はない。にわかには信じられないかもしれないが、日常的に激しい運動をしている人間には、マヨネーズはダイエット効果がある食品なのだ。なにしろマヨネーズもまた酢を含んだ食品なので。しかし運動量の少ない人間にとってマヨネーズはいわゆる「太る食品」の代表格なわけで。
また、ひとつの食品食材に頼ったダイエットの危険性についてはいうまでもない。たとえ一時的にダイエットに成功したとしても基礎代謝量が変わっていない以上、一種の過剰摂取である限り効果がなくなったり、あるいは摂取をやめた途端、前よりも太りやすくなってしまう危険があるからだ。
番組を作っている当事者にそういった配慮があるとは到底思えない。最後テロップか何かで断り書きが出るかなと思ったが結局なんもなし。
しかし、感心したのは伊集院光の番組クラッシャーぶりの方だった。伊集院は番組の終りの方で半年で15キロも痩せたことを語り始めたのだが、それは移動手段を極力自転車にした結果なのだな。つまり食品に頼ったダイエットではないと言いきったのも同じである。ラジオの情報だが、東京=熱海間を往復するかなり本格的なバイカーらしい。
そんな伊集院が一緒に並んでいた北陽の片割れの虻川(典型的な、食品に頼ったダイエット法の実践者)よりも体脂肪率が下だということも判明してしまった。男と女の違いはあるが、虻川が「体脂肪率はかわんない」とぼやいていたことを考えるとこれは笑えた。番組的には大失敗なのだが何故かカットもされずにオンエアされたし。
もし真剣にダイエットを考えている人間がこの番組を見てたならば、明けた今日あたりスーパーにダイエット食品を買いには行かずに自転車屋さんに自転車を買いに行くはずだろう。(笑)まぁそんな人はいないだろうけど。
で、何故自分が積極的にダイエットをしないかだが、それは太った原因が分かりきっていて放置っていても痩せると確信しているからと、いわゆる、痩せること、体重を落とすことが目的のダイエットの弊害を一度体験しているからだ。
結果的に痩せるダイエットと、痩せることが目的化したダイエットは完全に別物だ。
そこをわからないでいる人間はまだまだかなり多いな。何処かの出版社でダイエット本を書かせてくれないかな。5万部とはいわないが2万部は保証しまっせ。いやマジで。
05.12.12.09.00
※追記
フジテレビ・関西テレビの番組「あるある大事典Ⅱ」の中の嘘について言及した一文である。もちろんこのころ自分はその後この番組が捏造行為の発覚によって世間から袋叩きにあうなんてことは少しも考えたことはなく、だこの番組の胡散臭さ、捏造の存在についてなんとなーく匂わせるような書き方に留めている。
こうなるんだったらもっと大々的に「この番組には嘘がある」とはっきりといえばよかったなと思う部分はあるのだけれど、それは別に自分だけが気が付いていたとかではなく、ネット上のさまざまHP、ブログですでに言われていたことでもあったのだ。それを知っていたので自分はここではこの番組を叩くような書き方をするのは控えた。
要するに、自分よりも適任だと誰もが認める人たちがいたから自分はしなかった、ということである。
いなければ自分がやっていただろうな。たぶん。こういう性格ですから。
それとこれもはっきりと書いておかなければならないだろうが、あれから約2年後である今現在自分の体重は公約どおり64キロまで落ちた。これは痩せるためのダイエットをしたから痩せたというのではない。。
するべきことをしていれば体重なんてほおっといても落ちる(平均的な値に落ち着く)ものなのである。
落ちない、あるいは増える(体脂肪率か上がる)というのは何かが決定的に欠乏しているか、あるいは逆に過剰だからである。それを知るところから始めれば誰でも体重は落ちます。断言します。
2007.08.08.22
自分も今、体重が76キロ近くあってBMIとかで言うと10キロ近い体重超なのだ、実は。身近に体重増を指摘してくれる人がいないせいもあるが、4年前の1月に52キロしかなかったことを考えると今の体重はとんでもない肥満なんだよね。
でもダイエット関連のTV番組にはほとんど関心がない。無理して痩せるつもりはさらさらないからな。日曜の夜九時にやってる「あるある~」というやつもあまり見ない。ただ時々勝手に録画されていてそれ見ることがある。キーワードのひとつが「伊集院光」らしいのだな。
伊集院光はこの番組の準レギュラーらしい。確かに、テーマがダイエットのときにはうってつけなのかもな、一般的にはいわゆる「デブタレ」のひとりとして重宝されているし。
で今回の番組のタイトルが「タイプ別ダイエット」。体質別に効果的なダイエット方法というものがあって、それを間違うと痩せないよ、とあいかわらずのお説教を垂れてくれるわけだが、見ているうちに気分が悪くなった。
世間で今「寒天ダイエット」なるものが漫延していることはなんとなく知っていた。10月ころだったかか、必要があって棒寒天を買いに行ったのだが何処行っても売り切れだったからだ。
名前出しても差し支えなさそうな大型スーパーを何軒も回ったんだが何処にも棒寒天を売っていないのだ。店員に聞いたら、ダイエット食品としてブームになっていて品薄状態なのだと言う。粉寒天はあるというのにだ。
案の定、番組中に司会者が「この番組が火をつけたと言っても過言ではない」と言いきっていた。
腹が立ったね、なんなんだろこの得意気なもの言い。しかも大事な部分で明らかな嘘をついているというのにだ。
自分の知識でだが、ダイエット目的ならば寒天が棒寒天であろうが粉寒天であろうが大差ないはずなのだが。
もしこの番組で「棒寒天」の方がダイエット効果が高いと言っていたとすればそれは単純に固まり易さとか食感の違いくらいだろう。
今回の番組では、寒天やら番組で取り上げた食品でのダイエットで効果が出ないかった過去のモニターに対して別の食品ダイエット方法を試させ、さも効果が出たかのようなことを喧伝していたのだが、またもやそれが本当に医学的科学的に裏付けされた結果なのかは明らかにはされてなかった。
いや簡単なことなんですよ、試験者を毎日医者に診てもらい、食事量(摂取カロリー)の増減や運動量をチェックすればいいんだから。
「医学的にちゃんとしている」と断言するならそのくらいは明らかにしてほしいものだなと思った。しかし今回の番組では棒寒天ではなく粉寒天を勧める気弱なモデファイぶりには少し笑わせてもらった。まず最初に棒寒天ばかりを強調した誤りについては訂正はなくスルーしたまま。まあこの辺は所詮バラエティだししかたないか。
それよりなにより害があるなぁと強く思うのは「食品によるダイエットの弊害」そのものについての方だ。
やはりいまだに多くの日本人には「痩せる食材」が存在するという幻想があるようだ。
はっきりいうけどそんなもんありません。
あるとすれば肥満の要因を遅らせたり、阻止する成分を多く含んだ食材ということだろう。
いきなり酢を飲みだしたりしても痩せはしない。順番からいえば、運動により疲労した体内で脂肪を燃焼するために酢の主成分であるクエン酸などが効果的というだけであって酢そのものに痩せる効果はない。にわかには信じられないかもしれないが、日常的に激しい運動をしている人間には、マヨネーズはダイエット効果がある食品なのだ。なにしろマヨネーズもまた酢を含んだ食品なので。しかし運動量の少ない人間にとってマヨネーズはいわゆる「太る食品」の代表格なわけで。
また、ひとつの食品食材に頼ったダイエットの危険性についてはいうまでもない。たとえ一時的にダイエットに成功したとしても基礎代謝量が変わっていない以上、一種の過剰摂取である限り効果がなくなったり、あるいは摂取をやめた途端、前よりも太りやすくなってしまう危険があるからだ。
番組を作っている当事者にそういった配慮があるとは到底思えない。最後テロップか何かで断り書きが出るかなと思ったが結局なんもなし。
しかし、感心したのは伊集院光の番組クラッシャーぶりの方だった。伊集院は番組の終りの方で半年で15キロも痩せたことを語り始めたのだが、それは移動手段を極力自転車にした結果なのだな。つまり食品に頼ったダイエットではないと言いきったのも同じである。ラジオの情報だが、東京=熱海間を往復するかなり本格的なバイカーらしい。
そんな伊集院が一緒に並んでいた北陽の片割れの虻川(典型的な、食品に頼ったダイエット法の実践者)よりも体脂肪率が下だということも判明してしまった。男と女の違いはあるが、虻川が「体脂肪率はかわんない」とぼやいていたことを考えるとこれは笑えた。番組的には大失敗なのだが何故かカットもされずにオンエアされたし。
もし真剣にダイエットを考えている人間がこの番組を見てたならば、明けた今日あたりスーパーにダイエット食品を買いには行かずに自転車屋さんに自転車を買いに行くはずだろう。(笑)まぁそんな人はいないだろうけど。
で、何故自分が積極的にダイエットをしないかだが、それは太った原因が分かりきっていて放置っていても痩せると確信しているからと、いわゆる、痩せること、体重を落とすことが目的のダイエットの弊害を一度体験しているからだ。
結果的に痩せるダイエットと、痩せることが目的化したダイエットは完全に別物だ。
そこをわからないでいる人間はまだまだかなり多いな。何処かの出版社でダイエット本を書かせてくれないかな。5万部とはいわないが2万部は保証しまっせ。いやマジで。
05.12.12.09.00
※追記
フジテレビ・関西テレビの番組「あるある大事典Ⅱ」の中の嘘について言及した一文である。もちろんこのころ自分はその後この番組が捏造行為の発覚によって世間から袋叩きにあうなんてことは少しも考えたことはなく、だこの番組の胡散臭さ、捏造の存在についてなんとなーく匂わせるような書き方に留めている。
こうなるんだったらもっと大々的に「この番組には嘘がある」とはっきりといえばよかったなと思う部分はあるのだけれど、それは別に自分だけが気が付いていたとかではなく、ネット上のさまざまHP、ブログですでに言われていたことでもあったのだ。それを知っていたので自分はここではこの番組を叩くような書き方をするのは控えた。
要するに、自分よりも適任だと誰もが認める人たちがいたから自分はしなかった、ということである。
いなければ自分がやっていただろうな。たぶん。こういう性格ですから。
それとこれもはっきりと書いておかなければならないだろうが、あれから約2年後である今現在自分の体重は公約どおり64キロまで落ちた。これは痩せるためのダイエットをしたから痩せたというのではない。。
するべきことをしていれば体重なんてほおっといても落ちる(平均的な値に落ち着く)ものなのである。
落ちない、あるいは増える(体脂肪率か上がる)というのは何かが決定的に欠乏しているか、あるいは逆に過剰だからである。それを知るところから始めれば誰でも体重は落ちます。断言します。
2007.08.08.22
2005年11月3日木曜日
天国の誕生
医師をしていた友人がいた。今は医師を辞めて山梨のある中都市で園芸の仕事をしている。これは本人の了承を得て書いているのだが、数年前奥さんが亡くなったのをきっかけに当時勤務していた小さな個人病院を辞めてしまった。個人的な意見を言わせてもらうが、プロ意識のない人間だなとは思う。また、彼を良く知る人間としては、しかたないのかなとも思う。彼の奥さんのことはあまり良くしらない。電話で話したくらいで、特に強い印象はなかった。入退院を繰り返していたがあるとき不治と言われる難病であることが判明した。
それからのことはかなり慎重に語らなければならないのだが、ふたりはそろってある新興宗教に入信した。そこでなにがあったのかはわからない。が友人はすぐに奥さんを説得し脱信したのである。まもなく奥さんは病状が悪化し亡くなってしまったのだ。
共通の知人から元医師の友人の消息を知ったのは一昨年のことだ。その後かなり長い手紙をもらった。奥さんを失った喪失感や最後の最後、彼女に幸福感を与えることが出来たのかの迷いなどが面々と書き綴られていた。最後の絞めに、自分が今精神の均衡と平静を保っていられるのは今まで考えたこともなかった天国というものの存在を真剣に考えられるようになったからだ、とあった。
少し説明を加えるならば、自分が無神論者であることはいまさらながらだが、彼もまた無神論者であった。いわばその袂を分かったことを私に表明したのである。
私の無神論についていうならば、「科学万能」に基づいているのではない。既存の宗教を全面的に否定するものでもない。「あなたの言う神と私の中にある神は同じではない」という絶対的な確信なのだ。誰に言われようがそれは揺るがない。
かつて、ある人に頼まれて社会的に問題になったカルトの元信者の脱プログラムの手伝いとして既存宗教の学者の方々とお会いしたことがあった。
そのときにしみじみ感じたのは今の日本、既存宗教は決して人の心の問題を解決はしないなということだった。
むしろカルト呼ばわりされている怪しげな新興宗教の方が確実に「心の問題を解決」するのである。それはなにも新興宗教が優れているとかではない。たとえていってしまえば「後だしジャンケン」の方が有利なのと同じことだ。
既存宗教が規定していた「人の人生」や「一生」「寿命」「幸福」がリアリティを失ったのだと思う。本来宗教に帰依すべき良き人々の心を掴むべきなにかを失ったのである。
カルトと呼ばれるものの多くは科学を取り入れ、いかにもなものが多い。まあ科学といっても疑似科学留まりだが。がしかしそういったものの方が人の心を掴むのは確かなようだ。
彼が新興宗教に入信したのもうなずけなくもない。明日をも知れぬ家族の命を救うためとなら自分もそうしたかもしれない。ていうかおまえはまず結婚が先だろ、という突っ込みがはいるけど
目の前にいる信者に向かって「あなたが信仰している宗教はインチキだ」と諭すのは勇気がいることだ。
というかそんなことしてもやはり無駄なのだ。脱プログラムが成功するのはあくまで「元信者」だからであって、「抜けたい」という意思が脱プログラムという別の救いを求めているだけなのだと思う。
天国というものについて語るとするといくつもの障壁がある。単純に死後の世界はあるのかないのかからはじまり、はたしてあなたの語る天国と私の中にある天国が同じものなのか、天国とともに語られる地獄というものについてもそうだ。
天国の存在が人の心を救うのであればそれ以上は何もいうまい。だがあなたのいう天国がわたしの中にある天国と同じものなのか誰もわからない。
というようなことを彼に手紙で書いて送った。
彼がいかようにその手紙を読んだか、それはわからない。
今年彼から年賀状が届いた。ホームページの再開を望む旨が書き沿えてあった。彼はまだこちらのブログのことを知らないようだった。
それからのことはかなり慎重に語らなければならないのだが、ふたりはそろってある新興宗教に入信した。そこでなにがあったのかはわからない。が友人はすぐに奥さんを説得し脱信したのである。まもなく奥さんは病状が悪化し亡くなってしまったのだ。
共通の知人から元医師の友人の消息を知ったのは一昨年のことだ。その後かなり長い手紙をもらった。奥さんを失った喪失感や最後の最後、彼女に幸福感を与えることが出来たのかの迷いなどが面々と書き綴られていた。最後の絞めに、自分が今精神の均衡と平静を保っていられるのは今まで考えたこともなかった天国というものの存在を真剣に考えられるようになったからだ、とあった。
少し説明を加えるならば、自分が無神論者であることはいまさらながらだが、彼もまた無神論者であった。いわばその袂を分かったことを私に表明したのである。
私の無神論についていうならば、「科学万能」に基づいているのではない。既存の宗教を全面的に否定するものでもない。「あなたの言う神と私の中にある神は同じではない」という絶対的な確信なのだ。誰に言われようがそれは揺るがない。
かつて、ある人に頼まれて社会的に問題になったカルトの元信者の脱プログラムの手伝いとして既存宗教の学者の方々とお会いしたことがあった。
そのときにしみじみ感じたのは今の日本、既存宗教は決して人の心の問題を解決はしないなということだった。
むしろカルト呼ばわりされている怪しげな新興宗教の方が確実に「心の問題を解決」するのである。それはなにも新興宗教が優れているとかではない。たとえていってしまえば「後だしジャンケン」の方が有利なのと同じことだ。
既存宗教が規定していた「人の人生」や「一生」「寿命」「幸福」がリアリティを失ったのだと思う。本来宗教に帰依すべき良き人々の心を掴むべきなにかを失ったのである。
カルトと呼ばれるものの多くは科学を取り入れ、いかにもなものが多い。まあ科学といっても疑似科学留まりだが。がしかしそういったものの方が人の心を掴むのは確かなようだ。
彼が新興宗教に入信したのもうなずけなくもない。明日をも知れぬ家族の命を救うためとなら自分もそうしたかもしれない。ていうかおまえはまず結婚が先だろ、という突っ込みがはいるけど
目の前にいる信者に向かって「あなたが信仰している宗教はインチキだ」と諭すのは勇気がいることだ。
というかそんなことしてもやはり無駄なのだ。脱プログラムが成功するのはあくまで「元信者」だからであって、「抜けたい」という意思が脱プログラムという別の救いを求めているだけなのだと思う。
天国というものについて語るとするといくつもの障壁がある。単純に死後の世界はあるのかないのかからはじまり、はたしてあなたの語る天国と私の中にある天国が同じものなのか、天国とともに語られる地獄というものについてもそうだ。
天国の存在が人の心を救うのであればそれ以上は何もいうまい。だがあなたのいう天国がわたしの中にある天国と同じものなのか誰もわからない。
というようなことを彼に手紙で書いて送った。
彼がいかようにその手紙を読んだか、それはわからない。
今年彼から年賀状が届いた。ホームページの再開を望む旨が書き沿えてあった。彼はまだこちらのブログのことを知らないようだった。
2005年10月5日水曜日
非オカルティズム宣言
40才過ぎていろいろと考えることは多い。特に人の生き死にについては若いころとはかなり違うスタンスで考えてしまうようになった。
同い年どころか自分よりも若い人間でさえ、病気や事故である日突然この世から消えてゆくのも稀なことでもない。
自分がいま立っているこの足元さえ確かなものではないのだという漠然とした不安からの脱却は簡単ではない。「これからもこの見えない穴だらけの道を歩いてゆくのだ」という覚悟のようなものが芽生えるまでには時間が必要であった。
そんな自分だからこそ、安易なオカルティズムへの傾倒に対して警鐘を鳴らし続ける。オカルティズムとは、結局のところ死を恐れる人間が脳内で組み立てた科学という名を借りた貧弱な理論づけでしかないからだ。死を恐れはじめた人間が、今まで自分が得た知識の範囲内だけで組上げた、中身の貧弱な、外側だけは取り繕った見せかけだけの天国、それがオカルティズムというものなのだ。
死後の世界は果たして存在するのか、霊とはなんなのか、まだ誰も証明できない事柄に対してあやこれやいいたくなる気持ちはわからないわけでもない。しかしそれらの実在を人に語るだけの確かなバックグラウンドや研究、検証なしに「霊」や「前世」や「あなたたちだけの神」の実在を安易に触れ回っていいものなのか。どう考えても、それらを共有するためには、まだまだ長い時間が必要なはずなのだ。問題なのはそれに対してただ単に人間の寿命の方が短すぎるだけなのだが。それに気がつかない人間は多すぎる。
自分の経験から言っても、この世には不思議なことは確かに多数存在する。特に、偶然の一致では済まされない出来事には何度も遭遇しているし。(※池袋事件 有楽町事件 恵比寿事件 日暮里TRICK事件 参照)
だからといってそれらを簡単に神の仕業であるとか守護霊の導きと言って結論づけてしまうのは、言ってしまえば一種の思考停止であり、人であることを放棄する愚かな行為である。まず、自分の脳内や視神経や聴覚臭覚と言った五感を疑うところからはじめたほうがよい。
かつて自分の周りには、怪しげな宗教やオカルトに傾倒してゆく人間がかなりいた。今はあまりいないが(っていうか自分みたいな口うるさいのが近くにいると煩わしいからみんな逃げてゆくだけなんだろうなw)。
知り合いの女性がいた。広告の仕事をしていたときの仲間のひとりである。彼女が30を目前にしたころ、突然という感じで「波動」とか「高次元の存在」とかの世界を標榜する団体の会員になり、周りの放送・広告関係の人間を勧誘し、自分を中心とするサークルを作り始めた。自分も誘われた。もちろん自分は当然の義務として(自分の仕事として)彼女の論拠となるものを根本部分からひっくり返し、ぐうの根も出ないくらい論破してしまった。あまり気持ちのよいことではなかったし、それが本当に彼女の為になったかどうかはわからない。それでも自分に充足感のようなものがあったとすれば、彼女に誘われて入会してしまった何人かが、そのサークルから遠ざかり脱会するだけのきっかけにはなったことだった。うちひとりはラジオのDJとしても活動していたので、そういう人間が公共の電波を使ってオカルト伝道をすることは確実に阻止できたのである。
改めて言う。神とか霊とか前世とかを科学の範疇で語るのはずっとずっと先の世代に任せればいい。いまこの世に生きている人間がそれをやろうとするのは分不相応なのだ。一種の勘違い思い込みでしかないのだよと。ひょっとしてオカルティズムに傾倒し、「私は神の声が聞こえる」とか「霊感がある」ということは、一種のエリート意識のような優越感のあることなのかもしれない。がしかしそれはよくよく冷静になって考えてみれば、まっとうな人間から脱落したと宣言していると同じことなのだよ、と。
まずは運転免許を返上しなさい。周りの人間が迷惑だから。第一危ないでしょ。
《END》
(初出1999.08 メールマガジン『脱オカルト通信』その後加筆してHP『THE DAYS IN THE LIFE』に再掲 その後加筆訂正してHP『ANOTHER DAYS IN THE LIFE』に再再掲 2004.11ブログ『人生の一日』に『オカルトNO宣言』と改題して掲載)
再掲に当ってはまだ何名かの承諾は得ていません。必要ならば訂正削除いたしますのでご連絡をお待ちしております。
0510052030
同い年どころか自分よりも若い人間でさえ、病気や事故である日突然この世から消えてゆくのも稀なことでもない。
自分がいま立っているこの足元さえ確かなものではないのだという漠然とした不安からの脱却は簡単ではない。「これからもこの見えない穴だらけの道を歩いてゆくのだ」という覚悟のようなものが芽生えるまでには時間が必要であった。
そんな自分だからこそ、安易なオカルティズムへの傾倒に対して警鐘を鳴らし続ける。オカルティズムとは、結局のところ死を恐れる人間が脳内で組み立てた科学という名を借りた貧弱な理論づけでしかないからだ。死を恐れはじめた人間が、今まで自分が得た知識の範囲内だけで組上げた、中身の貧弱な、外側だけは取り繕った見せかけだけの天国、それがオカルティズムというものなのだ。
死後の世界は果たして存在するのか、霊とはなんなのか、まだ誰も証明できない事柄に対してあやこれやいいたくなる気持ちはわからないわけでもない。しかしそれらの実在を人に語るだけの確かなバックグラウンドや研究、検証なしに「霊」や「前世」や「あなたたちだけの神」の実在を安易に触れ回っていいものなのか。どう考えても、それらを共有するためには、まだまだ長い時間が必要なはずなのだ。問題なのはそれに対してただ単に人間の寿命の方が短すぎるだけなのだが。それに気がつかない人間は多すぎる。
自分の経験から言っても、この世には不思議なことは確かに多数存在する。特に、偶然の一致では済まされない出来事には何度も遭遇しているし。(※池袋事件 有楽町事件 恵比寿事件 日暮里TRICK事件 参照)
だからといってそれらを簡単に神の仕業であるとか守護霊の導きと言って結論づけてしまうのは、言ってしまえば一種の思考停止であり、人であることを放棄する愚かな行為である。まず、自分の脳内や視神経や聴覚臭覚と言った五感を疑うところからはじめたほうがよい。
かつて自分の周りには、怪しげな宗教やオカルトに傾倒してゆく人間がかなりいた。今はあまりいないが(っていうか自分みたいな口うるさいのが近くにいると煩わしいからみんな逃げてゆくだけなんだろうなw)。
知り合いの女性がいた。広告の仕事をしていたときの仲間のひとりである。彼女が30を目前にしたころ、突然という感じで「波動」とか「高次元の存在」とかの世界を標榜する団体の会員になり、周りの放送・広告関係の人間を勧誘し、自分を中心とするサークルを作り始めた。自分も誘われた。もちろん自分は当然の義務として(自分の仕事として)彼女の論拠となるものを根本部分からひっくり返し、ぐうの根も出ないくらい論破してしまった。あまり気持ちのよいことではなかったし、それが本当に彼女の為になったかどうかはわからない。それでも自分に充足感のようなものがあったとすれば、彼女に誘われて入会してしまった何人かが、そのサークルから遠ざかり脱会するだけのきっかけにはなったことだった。うちひとりはラジオのDJとしても活動していたので、そういう人間が公共の電波を使ってオカルト伝道をすることは確実に阻止できたのである。
改めて言う。神とか霊とか前世とかを科学の範疇で語るのはずっとずっと先の世代に任せればいい。いまこの世に生きている人間がそれをやろうとするのは分不相応なのだ。一種の勘違い思い込みでしかないのだよと。ひょっとしてオカルティズムに傾倒し、「私は神の声が聞こえる」とか「霊感がある」ということは、一種のエリート意識のような優越感のあることなのかもしれない。がしかしそれはよくよく冷静になって考えてみれば、まっとうな人間から脱落したと宣言していると同じことなのだよ、と。
まずは運転免許を返上しなさい。周りの人間が迷惑だから。第一危ないでしょ。
《END》
(初出1999.08 メールマガジン『脱オカルト通信』その後加筆してHP『THE DAYS IN THE LIFE』に再掲 その後加筆訂正してHP『ANOTHER DAYS IN THE LIFE』に再再掲 2004.11ブログ『人生の一日』に『オカルトNO宣言』と改題して掲載)
再掲に当ってはまだ何名かの承諾は得ていません。必要ならば訂正削除いたしますのでご連絡をお待ちしております。
0510052030
2005年9月20日火曜日
ノストラダムス預言詩集第10巻72番に関する自説
ノストラダムスを話題にする度に、この詩について語れと言われる。もう10年くらいはこの詩に対する自分の考え方は大きく変化していない。
この詩について自分が語ると、それはかなり投げやりというか、みんなの期待には沿えないと思うので、まず一般的に受け入れられている訳と解釈を述べてからのほうがよいだろう。
L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois,
Du ciel viendra vn grand Roy d'effrayeur:
Resusciter le grand Roy d'Angolmois,
Auant apres Mars regner par bon-heur.
年は一九九九年と七ヶ月
恐怖の大王が天より姿を現わすだろう
彼はアンゴルモアの大王を蘇生させ
その前後は火星が幸せに支配する
(山根和郎 訳)
これが今インターネットで見ることができる(訳者名の明らかな)一般的な訳。
これがP・ブランダムールの本では
一九九九年七つの月、
恐怖の大王が空より来たらん、
アンゴルモアの大王を蘇らせん、
マルスの前後に幸運で統べんため。
(高田勇・伊藤進 訳)
となっている。あまり大きな違いはないようだが、高田・伊藤訳は三行目四行目を
二行目の「恐怖の大王」が降臨する理由として捉え、倒置と見なした訳にしているのに対し、山根訳は三行目以下を「恐怖の大王」の登場以降を順序だてて訳してある。
どちらが正しいということではないが、山根訳には「・・・であろう」とか「彼は」という、原詩では使われてない単語が(この詩だけにかぎらず多数)出てくることから、これが他の言語(多分英語だろう)に訳されたものを日本語に訳した「重訳」であるということがわかる。これではノストラダムスの日本語訳としては「参考」レベルのものでしかないということは言っておかなければならない。
単語をひとつひとつ検証してゆくと、
まず一行目のnonanteという言葉にまず引っ掛かる。これは「90」という数を表す南仏あたりの方言。ベルギー(フラマン語)でもこのnonanteは使うが、16世紀当時とはいえこのnonanteという言葉の使い方、第一行目の登場は何か唐突な感じは否めない。デカラシッブという十音節法のためだけに無理矢理あてはめた感じがする。特に深い意味はないであろう。
二行目のd'effrayeurはだいたい「恐怖の~」と訳されるが、それが仮にeffrayerの異形だとしても、「世の終わりの到来級の恐怖」というニュアンスはない。国家間の紛争といった規模の恐怖か。(友人が、ニコの古いラテン語辞典を必死に繰ってもその程度だったと言っていた。)「空から降臨する恐怖の大王」というのは占星術的な表現で、彗星が見えるとか日食であるとかの天変地異の先駆けとされる現象を目にする事ができるという表現であろうと言われている。「言われている」というのは、ノストラダムスの他の預言詩に頻繁に登場しているからだが。だとすれば、「王の交代」であるとか「急激な政変」であって、決して「世の終わり」とは読めないのがこの詩なのである。ノストラダムスがもっとどぎつい表現で大量虐殺を表現した詩ならほかにいくつかある。
三行目、Angolmoisはいまさらながらだが、アングームという地名と、その地の領主から国王にまで上り詰めたフランソア一世を指すのではないかと思われる。決してモンゴリアのアナグラムでもなければアンコロモチでもない。
フランソワ一世について少し長い説明をする。言ってしまえば「フランス」という国の中興の祖ともいうべき国王であるが、当時まだローマや他の列強国に挟まれ、軍事的にも文化的にも立ち遅れていたフランス国内を再統一している。彼は芸術にも関心が深く、その最大の功績は、当時イタリアで不遇をかこっていたレオナルド・ダヴィンチを受け入れたことだといわれている。王は、ダヴィンチを厚遇をもって招き、城の近くにあった母のための立派な城屋敷をダヴィンチに充てて、ダヴィンチと親交を深めたのだ。
フランソワ一世は、かつて意外な形で日本でも広く知られるようになったことがある。ダヴィンチは数少ない自作品を一緒にフランスに持ってきたのだが、その一枚が「モナリザ」であったのだ。ま、これが今ルーブル美術館に「モナリザ」が所蔵されている最大の理由である。イタリア側からは散々「モナリザを返せ」と言われながらも「ダヴィンチを追い出したくせに今更なにを言う」とフランス側が応酬するという長閑な論戦が300年も続いていたりするわけだが。さて、その「モナリザ」の絵がかつて日本に来たことがあった。1975年のことだったと記憶しているが、実はそのとき一緒に展示されていたのがなにを隠そうダヴィンチの手によらない「フランソワ一世」の肖像画であったのだ。また、最近では「ダヴィンチ・コード」でこのフランソワ一世の名前を耳にした方もいるかと思う。
で、話をノストラダムスの詩に戻すが
四行目のAuant apresは「その前後・・・」だが、時間的な前後ととれるし、地理的な意味での「前と後ろ」ともとれることは付記すべきであろう。版によって「,(アポストロフィー)」があったりなかったりで、それがマルスに掛かるのか、アンゴルモア王にかかるのか、恐怖の大王にかかるのかはすぐには判断しにくいが、遂語訳だとどうしてもマルス(火星=戦争、軍神)に掛かるように訳してあるようだ。
「戦争前と戦争後(軍神登場前と登場後)」、「マルス(軍神)と立ち向かえば恐怖だが、その配下につけば幸福である」と解釈できるし、交錯韻を踏まえて解釈すれば「恐怖の王=アンゴルモア王=マルス」で、つまり「軍隊を前にすれば恐怖であるが(敵にとっては恐怖の大王であり)、盾にして後ろにいれば(フランソワ一世の時代のように)幸福である」ということを言っているのだと思う。
これらを踏まえて、上記の二つの訳を読んでもらえばこの詩に関する考察の90%は出来たも同然ではないかと思われる。
この詩は、フランソワ一世のような優れた王が、恐怖の大王といわれるような天の兆し(日食といわれている)とともにフランスに再来するむことを(預言として)描写したのであろう。この再来したアングームの王は、周囲の国々にとっては(軍事力を盾に)脅威となるが、国内においては「幸福な時間」と呼ばれる、ということであろう。
まあ、これが(まともな)研究者による一般的な解釈である。私もそれでいいのではないかと思う。
で、これから以下述べるのは私の個人的な見解と解釈であり仮説なのだが
そもそもこの詩の収められている第十巻というのは、第八巻以降がすべてそうであるようにノストラダムスの死後、息子のセザールの手によって出版された、言ってしまえば遺稿集、未発表詩集みたいなものだ。それが出版されることがはたしてノストラダムスの意思に沿ったことなのかどうかをまず考える必要があると思われる。
特に第十巻はまるでとり急いだようにきっちり百編揃っており、遺稿の残され方としては極めて不自然としか言わざろう得ない。たとえなにかの事情があったにせよ、ノストラダムスの中で、この第十巻はとりたてて重要ではなかったのではないかと思われる。もし仮にあなたがノストラダムスだとして、自分が一番伝えたい重要な詩を、果たしてこんな位置に置くだろうかを考えてみればわかるであろう。
自分自身この第十巻を最初に通して読んだときは、詩としての奥深さがほとんど感じられず、果たしてこれは同一人物の手によるものなのだろうかと悩んだくらいだ。技法的にいえば、交錯韻を考慮して理解しようとしてもどうなるようなものはほとんとなく、どちらかといえば「単なるダジャレじゃん!」といいたくなるような程度の低い脚韻でとどめた詩が多いのである。
で、私はこの詩を、第三者の手による、ノストラダムスの手法を真似た贋作であると位置付けている。おそらく犯人はノストラダムスの息子セザールか弟子達ではないか。たとえそうでなくともせいぜいノストラダムス自身の「下書き」、あるいは「習作」程度のものであったろう。
という観点から私はこの詩を(ノストラダムスの詩として)訳したり、考察したりはしないのである。
1996年か1997年のことだと思うが、私は渋谷だか新宿のとある場所で「インターネットにおける都市伝説」というライブイベントに招かれて、講師としてこのような事を約100人の聴衆の前で喋ったことがあったのだ。
会場はどっちらけであった。喋ってる最中に「ツマンネ~」とか「ワカンネ~」という声があちこちから聞こえてきたくらいだ。あれは失敗だったな。なにせ会場にお集まりいただいた聴衆のほとんどががギャルの皆さんだったし。
自分以外は、稲川淳二ばりの怪談とかUFOとかの話で大盛り上がりであった。
自分もダジャレやこじ付けで恐怖を煽るような珍解釈を披露したほうが、このイベントに水を差すようなことはしなかったろう。しかし、なんであんなイベントに呼ばれたんだろう。そっちのほうが謎だわい。
(初出『人生の一日<旧バージョン>』05.06.12)
参考及び引用
HP『ノストラダムスサロン』
HP『ノストラダムス研究室』
『ノストラダムス予言集』岩波書店 P・ブランダムール著 高田宏・伊藤進共訳
『トンデモノストラダムス大予言』『トンデモ予言の後始末』ともに大田出版 山本弘著
その後2ちゃんねる過去ログ「ノストラダムスの今後の展開が・・・(1と2)」を参考に手直して05.06.20ごろに修正バージョンをアップしてます。
この詩について自分が語ると、それはかなり投げやりというか、みんなの期待には沿えないと思うので、まず一般的に受け入れられている訳と解釈を述べてからのほうがよいだろう。
L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois,
Du ciel viendra vn grand Roy d'effrayeur:
Resusciter le grand Roy d'Angolmois,
Auant apres Mars regner par bon-heur.
年は一九九九年と七ヶ月
恐怖の大王が天より姿を現わすだろう
彼はアンゴルモアの大王を蘇生させ
その前後は火星が幸せに支配する
(山根和郎 訳)
これが今インターネットで見ることができる(訳者名の明らかな)一般的な訳。
これがP・ブランダムールの本では
一九九九年七つの月、
恐怖の大王が空より来たらん、
アンゴルモアの大王を蘇らせん、
マルスの前後に幸運で統べんため。
(高田勇・伊藤進 訳)
となっている。あまり大きな違いはないようだが、高田・伊藤訳は三行目四行目を
二行目の「恐怖の大王」が降臨する理由として捉え、倒置と見なした訳にしているのに対し、山根訳は三行目以下を「恐怖の大王」の登場以降を順序だてて訳してある。
どちらが正しいということではないが、山根訳には「・・・であろう」とか「彼は」という、原詩では使われてない単語が(この詩だけにかぎらず多数)出てくることから、これが他の言語(多分英語だろう)に訳されたものを日本語に訳した「重訳」であるということがわかる。これではノストラダムスの日本語訳としては「参考」レベルのものでしかないということは言っておかなければならない。
単語をひとつひとつ検証してゆくと、
まず一行目のnonanteという言葉にまず引っ掛かる。これは「90」という数を表す南仏あたりの方言。ベルギー(フラマン語)でもこのnonanteは使うが、16世紀当時とはいえこのnonanteという言葉の使い方、第一行目の登場は何か唐突な感じは否めない。デカラシッブという十音節法のためだけに無理矢理あてはめた感じがする。特に深い意味はないであろう。
二行目のd'effrayeurはだいたい「恐怖の~」と訳されるが、それが仮にeffrayerの異形だとしても、「世の終わりの到来級の恐怖」というニュアンスはない。国家間の紛争といった規模の恐怖か。(友人が、ニコの古いラテン語辞典を必死に繰ってもその程度だったと言っていた。)「空から降臨する恐怖の大王」というのは占星術的な表現で、彗星が見えるとか日食であるとかの天変地異の先駆けとされる現象を目にする事ができるという表現であろうと言われている。「言われている」というのは、ノストラダムスの他の預言詩に頻繁に登場しているからだが。だとすれば、「王の交代」であるとか「急激な政変」であって、決して「世の終わり」とは読めないのがこの詩なのである。ノストラダムスがもっとどぎつい表現で大量虐殺を表現した詩ならほかにいくつかある。
三行目、Angolmoisはいまさらながらだが、アングームという地名と、その地の領主から国王にまで上り詰めたフランソア一世を指すのではないかと思われる。決してモンゴリアのアナグラムでもなければアンコロモチでもない。
フランソワ一世について少し長い説明をする。言ってしまえば「フランス」という国の中興の祖ともいうべき国王であるが、当時まだローマや他の列強国に挟まれ、軍事的にも文化的にも立ち遅れていたフランス国内を再統一している。彼は芸術にも関心が深く、その最大の功績は、当時イタリアで不遇をかこっていたレオナルド・ダヴィンチを受け入れたことだといわれている。王は、ダヴィンチを厚遇をもって招き、城の近くにあった母のための立派な城屋敷をダヴィンチに充てて、ダヴィンチと親交を深めたのだ。
フランソワ一世は、かつて意外な形で日本でも広く知られるようになったことがある。ダヴィンチは数少ない自作品を一緒にフランスに持ってきたのだが、その一枚が「モナリザ」であったのだ。ま、これが今ルーブル美術館に「モナリザ」が所蔵されている最大の理由である。イタリア側からは散々「モナリザを返せ」と言われながらも「ダヴィンチを追い出したくせに今更なにを言う」とフランス側が応酬するという長閑な論戦が300年も続いていたりするわけだが。さて、その「モナリザ」の絵がかつて日本に来たことがあった。1975年のことだったと記憶しているが、実はそのとき一緒に展示されていたのがなにを隠そうダヴィンチの手によらない「フランソワ一世」の肖像画であったのだ。また、最近では「ダヴィンチ・コード」でこのフランソワ一世の名前を耳にした方もいるかと思う。
で、話をノストラダムスの詩に戻すが
四行目のAuant apresは「その前後・・・」だが、時間的な前後ととれるし、地理的な意味での「前と後ろ」ともとれることは付記すべきであろう。版によって「,(アポストロフィー)」があったりなかったりで、それがマルスに掛かるのか、アンゴルモア王にかかるのか、恐怖の大王にかかるのかはすぐには判断しにくいが、遂語訳だとどうしてもマルス(火星=戦争、軍神)に掛かるように訳してあるようだ。
「戦争前と戦争後(軍神登場前と登場後)」、「マルス(軍神)と立ち向かえば恐怖だが、その配下につけば幸福である」と解釈できるし、交錯韻を踏まえて解釈すれば「恐怖の王=アンゴルモア王=マルス」で、つまり「軍隊を前にすれば恐怖であるが(敵にとっては恐怖の大王であり)、盾にして後ろにいれば(フランソワ一世の時代のように)幸福である」ということを言っているのだと思う。
これらを踏まえて、上記の二つの訳を読んでもらえばこの詩に関する考察の90%は出来たも同然ではないかと思われる。
この詩は、フランソワ一世のような優れた王が、恐怖の大王といわれるような天の兆し(日食といわれている)とともにフランスに再来するむことを(預言として)描写したのであろう。この再来したアングームの王は、周囲の国々にとっては(軍事力を盾に)脅威となるが、国内においては「幸福な時間」と呼ばれる、ということであろう。
まあ、これが(まともな)研究者による一般的な解釈である。私もそれでいいのではないかと思う。
で、これから以下述べるのは私の個人的な見解と解釈であり仮説なのだが
そもそもこの詩の収められている第十巻というのは、第八巻以降がすべてそうであるようにノストラダムスの死後、息子のセザールの手によって出版された、言ってしまえば遺稿集、未発表詩集みたいなものだ。それが出版されることがはたしてノストラダムスの意思に沿ったことなのかどうかをまず考える必要があると思われる。
特に第十巻はまるでとり急いだようにきっちり百編揃っており、遺稿の残され方としては極めて不自然としか言わざろう得ない。たとえなにかの事情があったにせよ、ノストラダムスの中で、この第十巻はとりたてて重要ではなかったのではないかと思われる。もし仮にあなたがノストラダムスだとして、自分が一番伝えたい重要な詩を、果たしてこんな位置に置くだろうかを考えてみればわかるであろう。
自分自身この第十巻を最初に通して読んだときは、詩としての奥深さがほとんど感じられず、果たしてこれは同一人物の手によるものなのだろうかと悩んだくらいだ。技法的にいえば、交錯韻を考慮して理解しようとしてもどうなるようなものはほとんとなく、どちらかといえば「単なるダジャレじゃん!」といいたくなるような程度の低い脚韻でとどめた詩が多いのである。
で、私はこの詩を、第三者の手による、ノストラダムスの手法を真似た贋作であると位置付けている。おそらく犯人はノストラダムスの息子セザールか弟子達ではないか。たとえそうでなくともせいぜいノストラダムス自身の「下書き」、あるいは「習作」程度のものであったろう。
という観点から私はこの詩を(ノストラダムスの詩として)訳したり、考察したりはしないのである。
1996年か1997年のことだと思うが、私は渋谷だか新宿のとある場所で「インターネットにおける都市伝説」というライブイベントに招かれて、講師としてこのような事を約100人の聴衆の前で喋ったことがあったのだ。
会場はどっちらけであった。喋ってる最中に「ツマンネ~」とか「ワカンネ~」という声があちこちから聞こえてきたくらいだ。あれは失敗だったな。なにせ会場にお集まりいただいた聴衆のほとんどががギャルの皆さんだったし。
自分以外は、稲川淳二ばりの怪談とかUFOとかの話で大盛り上がりであった。
自分もダジャレやこじ付けで恐怖を煽るような珍解釈を披露したほうが、このイベントに水を差すようなことはしなかったろう。しかし、なんであんなイベントに呼ばれたんだろう。そっちのほうが謎だわい。
(初出『人生の一日<旧バージョン>』05.06.12)
参考及び引用
HP『ノストラダムスサロン』
HP『ノストラダムス研究室』
『ノストラダムス予言集』岩波書店 P・ブランダムール著 高田宏・伊藤進共訳
『トンデモノストラダムス大予言』『トンデモ予言の後始末』ともに大田出版 山本弘著
その後2ちゃんねる過去ログ「ノストラダムスの今後の展開が・・・(1と2)」を参考に手直して05.06.20ごろに修正バージョンをアップしてます。
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