2006年2月10日金曜日

ピーター・ゲイブリエルが変えた音楽世界とは 1


それでそのジェネシスを脱退したピーター・ゲイブリエル(以下PG)が最初から順調というわけではなかったようだ。

いまのところ唯一ともいうべき評伝からもカットされていることなのだが、当時契約のあったカリスマレーベルとの確執からレコード何枚分ものデモテープが闇に葬り去られ、契約履行のためだけとしか思えないギクシャクとした内容のファーストアルバムがリリースされたのは77年の8月である。

このアルバム、通して聴くとA面の一曲一曲のセンスの良さとB面のだらしなさがまるで別人のものじゃないかと疑いたくなるくらい離反している。

なんでも、カリスマ・レコードが用意したプロデューサー、ボブ・エズリン(このあとピンクフロイドの『ザ・ウォール』を手がけている)との確執が空中分解してこのような出来になったといわれているが。

さて、個人的なことになるが、自分がPGを真剣に聞きだしたのはこのアルバムからであった。

当時親しかった女の子がジェネシスの熱狂的なファンだったので、ジェネシスはだいぶ前から聞いては(聞かされて)いたのだが、正直、たまーに良い曲はあるのだが全体的にダラダラとした長い曲ばかり続き、それもELP信者(!)の耳にはどこか生温い感じがするものばかりだったのでジェネシス=PGに対してさほど興味はなかったのだが。

が、このアルバムのA-2「ソウルスベリー・ヒルズ」A-3「モダン・ラブ」をはじめて聞いたときは(たぶんNHKFMの渋谷陽一の番組だと思うのだが)「嘘だろ」といいたくなるくらいだった。

それくらい今までのPG=ジェネシスの音楽とは違うものだっだ。

自分がジェネシスに感じていた疑問というか不満を吹っ飛ばすに充分すぎるくらいのインパクトであった。

トム・クルーズの映画「バニラ・スカイ」でも使われていたが、「ソウルスベリー・ヒルズ」の持つリズムの軽快さ、メロディーの力強さ、寓意性に富んだ言葉はイギリスから遠く離れた日本に住む18才の少年にも確実に伝わったのである。

今では信じられないことだが、当時の洋楽ファンはミュージシャンが動く映像なんて滅多やたらに見れるものではなく、それこそNHKテレビでたまにやる「ヤング・ミュージック・ショー」(なんちゅーネーミングセンス!)で見れるくらいで、しかも当時の仙台なんかでプログレ関係の音の出る動く映像なんてめったやたらに見れたものではなかったのだが、ときどきヤマハやサンリツ(!)で行なわれたフィルム上映会には飛びつくように通っていたものである。

どっちだったかは忘れたが(上映後、下のスタジオにハウンドドッグの大友康平氏がいたのでたぶんヤマハホールだ)そのフィルム上映会でPGのプロモフィルムを見ることが出来た。

あの世界的な大変革を呼んだといわれている「モダン・ラブ」のプロモフィルムである。

アメフトのプロテクターやフェンシングのマスクを身につけたPGが、動く歩道の上で口パクしているだけの、今では「ぷっ」と吹き出しそうになるような、チープな出来ではあったが、当時としてはかなり完成度の高い「一曲のためだけのプロモ・フィルム」で、PGのシアトリカルな演技力もあり、自分はそのちっぽけなスクリーンな映し出された映像に釘付けになってしまったのである。

しかし場内の反応はイマイチであったようだ。いや、詩の内容がわからないと、なんでこんなことしてるのかさっぱりわかんないからなんですけどね。

しかし、このPGの「モダン・ラブ」のプロモフィルムに釘付けになった男が実はアメリカにもいたのである。

そしてそれが時代を大きく動かすとはまだ誰も知る由もなかったのであるが。
(続く)
http://jp.youtube.com/watch?v=FhVvam48_CI

http://jp.youtube.com/watch?v=HdrpT9ISLC8

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