2006年5月24日水曜日

彼らは「多次元の宇宙は存在する」と言った

ある「波動」関連のブログを読んでいて「あいかわらずだな」と思ったことがある。
「次元」という言葉の使い方を間違えている事である。
おそらくは物理学での「次元」とはなんなのかという認識が出来ていないのだろう。

そもそも「次元」とは相対化数値化することのできる概念である。
というか相対化数値化できなければいけない。それが「次元」という言葉を使うときのお約束だからだ。

ところが波動関係の人たちは我々の住むこの現実の空間をいきなりすとんと「三次元」と既定してしまい、その上にある「次元」を「多次元」だとか「高次元」と言う。

これが間違いの大もとである。

まずだいたいにして、この現実世界イコール「三次元」ではない。

「三次元」というのはあくまでこの現実の実在空間を模式的に説明するために考え出されたひとつの仮説でしかない。いわば一種のコンセプトだ。

我々が実存するこの現実の空間の中にさえモデル的に純粋な「三次元空間」はありえない。

あるとすれば我々の頭の中にであり、コンピュータのような純粋な数式であらわされる(閉鎖系)世界にのみに存在する。そういう性質のものだ。

おそらくは「波動」の人たちはこのことがわかっていない。

だから「三次元以上の多次元(高次元)」について語ると、とたんにあやふやになったり「愛」だとか「理性」だとか相対化も数値化も不可能な概念を持ち出してきたりするであろう。

我々の住むこの(現実の)世界を上位抱合する別の世界があると主張することはかまわない。(あるなしは別の問題だからだ)問題があるとすればこの現実世界を「三次元」と呼んだり、その上位包括する別の世界を「多次元(高次元)世界」と呼ぶことであろう。

「次元」というコンセプトを用いて説明したいのであればちゃんと相対化・数値化できるその4番目の次元を提示しなければ話にならないのだ。


その昔、8年ほど前のことだが、下北沢の事務所にいたとき、「波動」の人たちにとっつかまってしまったことがあった。

近くのビルに「研究所」を設立したとかで挨拶に来たのだが。彼らが自分達の活動を説明しようとしているのだが言っている事がまったくわからなかった。

これは一方的に彼らのせいだ。自分達でもよくわかってもいないのに「三次元」だとか「多次元宇宙」だとかの単語を振り回し相手を納得させようとしたからである。

んなもんワシの手にかかったら最後だ。逆に質問攻めにした。


「何故、仮説である三次元宇宙論の上に屋上屋を上乗せしたような多次元宇宙の実在を真剣に説かれなければならないのか?」「じゃあその4番目の要素って何?」「その愛はどう数値化できるの?」

そういった私の放った基本的な疑問に対して彼らはちっとも答えられなかった。

仕舞いに彼らはそんな私を「まだまだレベルに達していない人」と呼んだのである。

実に腹ただしい記憶である。


そのブログを読んでいてその時のことを思い出したのだ。

こういう(波動の)人の書いた文章を読んだり話をきいたりすると感じてしまうのは「なんとまあ想像力の足りない人たちであることか」ということだ。

「想像力が豊富」なのではない。逆だ。彼ら一様に言えるのは「想像力の不足」であり「創造力の欠如」だ。

ところが彼らは「自分たちは普通の人よりも想像力は豊富だ」と確信している。

なものだから自分達の語ることが一般人に通じないと突然にヒステリックになったり、相手を見下したような態度になる。

自分達に都合のよい別世界について語るのであれば「次元」であるとか「高次元」「多次元」などという物理学からの借り物の言葉をいつまでも使うのはよくない。

自分らのマインドゲームにふさわしい言葉を作るなりして語ればよいのだ。

「第何次精神世界」とか「層状世界の外側」とかいくらでもあるでしょうに。

むしろ自分のような「アンチ波動」の人間の方がこういうことに長けていたりする。

何故かといえば自由にものを考える能力が「去勢」されていないからである。

これを指して私は「想像力」あるいは「創造力」の差と言っているのである。

この想像力の不足、創造力の欠如はどこからくるのか、過去何人もの波動の人たちと話をして来た私にはわかるのだ。

ひとことでいえばそれは一種の教条主義である。宗主の口にしたこと、本に書かれていることに疑いをもたずに鵜呑みにしたり、丸暗記したりしてそれを自分の知識と勘違いして起きる悲劇である。

で、何故疑いを持たないかというと一種のマインドコントロール状態にあるからだ。

もしこのような「波動」のような疑似科学の概念を示されれば、普通の人は疑うところからはじめる。それが出来なくなっているということは怖い事なのであるが。

8年前私を指して「レベルに達していない」と言った彼らと自分の差をレベルという言葉を使ってこちら側から言わせてもらえれば「想像力・創造力が失われてゆくレベル」には達していないということだ。残酷な言い方になるが。

まあ最近この手のブログばかり目にしているのだが、なにもかも8年前とかわりはないな、というのが私の偽らざる感想である。

(この記事重複します)

0605241946