2014年7月12日土曜日

この自分を動かすもの 2

数年前に親友が肝硬変で死んだ。肝硬変というがまあ肝臓ガンである。

追悼の意味でここで彼の名前を挙げる。

花澤房人という。

何故私が彼のことを「親友だ」というかといえば、言うまでもないことだが、彼の死後、彼以上に深く語り合える友がわたしにはいないからだ。というかもう出てこないだろう。それはそれであきらめるしかない。

だからそれは12年以上も前、2002年前後のことになる。
当時の閉塞した日本経済についてけっこう真面目に真剣に議論を重ねていたときのことだった。ふたりのほかにもたぶんもうふたりくらいはいたはずだし、つまりそれは居酒屋であるとかそういう酒を飲む場所ではなかったのだろう。(このあたりになると記憶が曖昧というか、当時の花澤はもう酒は飲めなかったのかみたいな矛盾と疑問もあるからだ。肝硬変の再発が疑われていて、それが何を意味するかを自覚していたのならば花澤らしいということにもなる)

まさか当時はそんなことになるとは夢にも思わなかったわけだが、花澤はその若いふたりに対してかなりきつい詰問調の言葉で『これから日本って、敗戦直後の日本と同じ状態になるってことなんだよ。世界的な経済のグローバル化の動きから取り残されて』みたいなことを強調した。要するに見た限り建物はちゃんと立っているが、当時 - つまり2001年からの世界同時株安からのデフレスパイラルで日本の経済の縮小がみえはじめたころのことだが - 花澤はそれを「建物の見える焼け野原」と言ったのだった。

「当時はそんなことになるとは」というのは日本経済のことではない。

私が多賀城市で目の当たりにした光景のことである。そう3.11の直後、津波に襲われた国道45号線を避難所の仲間たちと塩釜方面に向かって自転車を押しながら目の当たりにした、その光景のことである。

同行していたひとりが「まるで戦場みたいだ」と言い、まあ今だから書くけれど、道路のあちこちには横倒しになった無数の乗用車が不連続に続いていて、中から遺体が次々に運び出されていた。まさにそのときのことだ。

それから三年が立ったわけだが、もうひとつ私の脳裏に焼きついて離れない光景がある。

利府のグランティ21からの帰り道だったか。詳しくは書けないが、その焼け野原ではなくて、津波で襲われて流れ着いた木材の隙間からのぞき見た光景である。

何人もの男たちがまるで隠れるようにしてひっそりと酒を酌み交わしていたのだ。

それを見たとき、自分は彼らのことを不謹慎であるとか責める気にはなれなかった。

生前の花澤の言葉があったからだ。

要するに黒澤映画の中に出てくる光景のことなのだろうが、戦後のあの絶望の中から日本人が蘇ることができたのはその日の稼ぎで横浜黄金町あたりに繰り出して酒をかっくらい、女を買い、ギャンブルに明け暮れるような破天荒なひとたち、明日のことなど一切考えない肉体労働者がいたからだというのだ。
そしてそういうやさぐれどもを容認してしまう奥深さが当時の日本にはあったのだろうし、わたしたちの現在があるのは彼らの屍累々のおかげだというのだ。

花澤が「オレさ、居酒屋やりたいんだけど、アンタ一緒にやろうよ」と持ちかけてきたのは知り合った直後のことだった。

断ったが。というのもこのワタシ、何故かその直前にも別のスナック経営者から『今マネージャーを募っている店があるのだけれど』とヘッドハンティングされたばかりだったからだ。

そのはなしを花澤にすると彼は喜んでいた。要するに「自分は見る目がある」ということをそのスナック経営者が証明したのと同じだからだ。

彼は「やればいいのに、村上春樹みたいでかっこいいじゃん」とも言っていた。まあ村上春樹はスナックでも居酒屋でもなくて「バー」ですけどね。


最近、コンビニやスーパーに行くと不愉快なものを目の当たりにすることが多くなった。
それは「がんばろう日本!」のステッカーだったりポスターだったりする。

何故不愉快かはいうまでもないだろう。

日本が頑張らなければならないのはいつの時代でも同じことだからだ。
何故今「頑張ろう日本」なのだろう。

いやむしろどうしてここははっきりと「復興が全然すすんでないから、今ままで以上に」とは言ってはくれないのだろうか。

同様、最近地元仙台多賀城の知り合いとメールやら直接話したときにも似たような気分にさせられた。一度や二度のことではない。

市町村や県といった自治体のやる気のなさが感じられることが多いからだ。逆だな。伸ばし伸ばしに時間稼ぎをしているようにしか見えないことが多すぎるのである。

というか、どうやら自治体がスローガンとして掲げている「復興 頑張ろう○○!」の○○ところに自分の名前がはいるということは、それはつまりある種の復興利権というものが存在するからなのだろう。「復興」といっているうちはそれを手放すつもりがないということでもある。それがいろいろな局面で見えてしまうので、彼ら同様に聞かされた私までも不愉快になるのである。

たとえば、これは前にも書いたことだが、仙台から多賀城-塩釜にかけての国道45線沿いあるいは県道23号線沿いには何故か建物の立たないところが手付かずのまま空き地になっている。
結構な一等地が目に付くのである。津波以前は細かなお店がいくつも並んでいたようなところだ。

聞けば、やはり自治体のどこからかストップがかかっているのだという。
要するに大型の施設をその場所に誘致させたいのだろう。そして自分ところが主導するようなカタチにして自治体の利権を発生させるためにと再建のハードルをあげている、そういう一等地が目に付くのである。

けしからんはなしである。

それこそ民間に任せればもうとっくにここには何かはあったような場所がこういう利権の発生のために空き地のままなのだ。
そりゃドイツ人の容疑者も逃げるわさ。ザルみたいなものなんだもの。

それに気づかされたときにもまた、生前の花澤のことばが重くのしかかってきたのである。

「建物はあるが焼け野原みたいなものなのだ」という例の、つまり最初に書いた言葉である。


おそらくだが、花澤は再び忍び寄ってきた死の影というものを意識していたのだろう。

それがあったのならば、何故あのようなふたりに対する強い口調になったのかが、なんとなくだがわかった。
彼がそれを伝えたかった本当の相手とはその若いふたりではなくてこの自分だったのではないのか。


長らくスーパーで魚屋の店を出していた知り合いがそのスーパーでの出店をあきらめるというのを聞いた。
もうこのようなテナントでスーパーに出店してテナント料を支払っていても赤字が膨らむだけなのだという。
さびしい話である。彼もまた3.11の被害者ということになるのだろう。

その彼が以前グチっていた。そのはなしをここで書く。

彼の家の近所にはコンビニが何軒かある。
彼は「最近ね、コンビニの夜勤たちの仕事がレベルダウンしているお店があって、オレついにブチきれてオーナーにじゃなくてエリア本部にまでクレームつけちゃったよ・・・」と語りだした。

まあ仮にそのコンビニ、Fということにしておくが、三年前に、つまりやはり3.11以降に夜勤のメンツががらりとかわった。学生やフリーターの数がめっきりと減り、あきらかに五十過ぎのおっさんがたちがその店の夜勤としていつ行っても目立つようになったというのだ。

彼はすぐにピンときたという。まあなんというのか、同業者同士というのではないが、彼らからかすかに立ち上る潮と魚の匂いから、仕事を失った漁師たちだということに。

「これは美談なのか。イイはなしとして片付けてのか」彼はそれは違うと感じたという。

彼らの仕事ぶりというのか店での勤務態度に対してはかなり厳しい見方をした。

「要するにさ、彼らは甘えているわけよ。それが顔に出てしまっている。『わたしは哀れな3.11の犠牲者でございます』みたいな雰囲気がさ。それがオレには許せないのよ。

どういうことか。これは逆にそのはなしを聞かされていたわたしが気づいた。要するにその新しい夜勤アルバイトの元漁師さんたちは、自分の今いる「コンビニ夜勤」のポジションは誰かから奪ったものだということまでは考えていないのだろう。

これは客の立場からすれば一目瞭然である。自分が行くコンビニの店員はごく普通に仕事のできる人であってほしい。

それは3.11の被害者だというならばそのことに対して同情は寄せる。しかしそれと仕事ぶりとは別だ。3.11の被害者だから仕事のスキルが低くても許されるということには絶対にならない。

もし、いつもの顔なじみの夜勤がごそっといなくなって、かわりに五十過ぎのなんとなく暗い面持ち店員がレジ処理できずにもたついたりしたらそりゃいやだもの。

さてその魚屋さんがついに深夜のコンビニで元漁師の夜勤のおっさんのひとりに対してブチきれたというはなしである。

何が問題だったのか。

要するに簡単に言うと(彼の言葉でいうならば)「仕事覚える気がないのならばトレーニングスタッフ(研修生)の名札つけろよ。時給下げるようにに申し出ろよ」ということと「いやならさっさとコンビニ辞めて港に戻れよ、船に乗れよ。アンタの仲間で意気のあるやつはもうとっくに稼ぎ二の次で海行ってるじゃねぇか。あれ見てどう思うか。アンタがここにいる理由はそれは明日の生活のためじゃないのか。恥ずかしいとは思わないのか」

そこまで言うかというくらいのブチ切れぶりである。

しかし彼のこの言葉を聞けば「ああそういうことね」と納得される方もいるかもしれない。

「もう二年もコンビニで夜勤やってて『スイカの残額を見るやり方を知らない』とか言われたら普通『なんで?』って聞くでしょ、そりゃ。そしたらそのおっさん『今までひとりシフトでレジを打つことはなかったので』としゃあしゃあといいやがってさぁ、いや、これはもう理屈じゃないでしょう・・・だからね、キレた。」

向こうは驚いてたかと聞くと「それがさ、全然なのよ」と困り顔になった魚屋さんの表情は忘れられない。


聞けば、別に魚屋を辞めるというのではなくてテナントを畳むだけでこれからも小型トラックで行商の魚屋は続けるということらしいが。

ここまでいろいろと書いてきたが、私がこの記事で書いたことの意味と意義、伝わっているだろうか。
すでにメールで同じようなことを書いて送ったかたもいるのでそういう方には伝わっていることを祈りたい。

要するに「自分もまたやっと決心がついた」ということをだ。

復興という言葉なんかクソくらえだ。
自分は自分のためにこの「復興」という言葉を捨て去ることにした。
復興のためにではなくて、ビジネスとして彼らの横っ面をぶったたいて目を覚まさせるのである。
魚屋さんの「いつまでもあまえてんじゃねぇよ」の言葉どおりである。
何をやるかといえばもちろん居酒屋です。自分が店に立つのではないが。

というわけでこの記事は「3」があるということになるのだが。笑。

(つづく)



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