日常生活の中には、ある種の罠のような物がたくさん仕組まれているなと感じることがある。
こんな書き出しだと、「なんだ陰謀論みたいなことを言い出すのか」と思う人がいるのかもしれないが。
そうではない。
たとえば、これはあくまでも例として出すのだが、エスカレーターの乗り方で片側詰めの問題というのがある。なんだか知らないうちに「エスカレーターは片側の寄って乗り脇を空けて乗りましょう」というのが「正しいマナー」ということになった。
誰が言い出してそうなったのかは知らない。自分の記憶でもはっきりしない。たぶん、1990年代のアタマにはなんとなくそうしなくちゃいけないという雰囲気をもってエスカレーターを利用していたという記憶はすっすらと残っている。
「東京は左寄せだが名古屋より西はなぜかどこも右寄せである。」
数年前、帰仙したときに仙石線の長いエスカレーターを初めて使ったとき、何故か右寄せだったので激しい違和感を感じたのを覚えている。
しかし今ではそれも何故かいつのまにか綺麗に左寄せということで統一されているようだ。
だが、それはそれで首を捻りたくなるような不思議な出来事である。
何故「左」なのかという明解な答えはないからだ。
いつだったか、等々力あたりの深夜のファミレスで何人かと話をしていたときに、その話題になって「右か左どちらが正しいのか」というちよっとした激論になってしまったことがあった。
誰かが「東京は間違っている」とか言い出したからである。
きっと関西出身の人間なのだろう。「右に寄らないと危ないではないか」というようなことを熱っぽく語り始めたのだ。
さらには、武家の作法を持ち出してそれを肯定するやつ、道交法を持ち出して来て、パッシングは右からが基本だとか反論する奴が続出した。
その中で、右か左かの意見を求められて、自分は「どっちでもいい」と答えた。
「そんなこと自分の前と後ろを見て決めればいいことだ」
そう言うと、なんだか自分のその意見というものが場の雰囲気をものすごく悪くしたようだったが。
知るか。今は江戸時代でもないし、人間は二車線道路を走る車ではない。
「関東が」とか「関西が」とか言ってみても所詮付け焼刃のなんちゃってマナーでしかない。
どうせならお雑煮の餅の形、丸か四角についての議論の方が有意義なはずである。それこそ長い文化と伝統同士のぶつかり合いの議論になる。嘘だと思うのなら一度やってみればいい。
よく、「ロンドンでは・・・」と持ち出して右寄りが正しいとか言い出す奴がいるが、あれはまったくの嘘出鱈目かただの伝聞の聞き間違えである。
ロンドン生まれの人間を何人か知っているが、全員が「ロンドンは右側」を守っていないといっていた。
「チューブ・テイルズ」とかのイギリス映画あたりを見ればすぐにわかることだが、ロンドンの地下鉄のエスカレーターを利用している人間の使い方は全員バラバラでマナーもへったくれもない。
だいたいにして、ロンドン(でもおそらくニューヨークでも)日本のように、ワンステップごとにぎっちり詰めて乗るような乗り方をしない。
あの KEEP RIGHT の意味は、後ろから追い越す人間がいたら右側に避けろという約束の確認でしかないのである。
土台、そもそもエスカレーターを利用していて、その脇を通り抜けて駆け上がること自体がマナー違反だからだ。
急用や、必要があって急ぐときは「MAKE MY WAY PLEASE」とか後ろから声をかけて避けてもらう。
初めから急いでいる奴は階段を駆け上がればいいのだ。それでいいのである。というかそうでなければいけないのではないか。
エスカレーターが誕生してもうウン百年が経とうとしているらしい。実用化されてからはほぼ二百年が経ったという。
そのころから、エスカレーターを利用する際の基本マナーは変わってはいない。
ゆっくり、静かに、真ん中に立つことである。それがエスカレーターの正しい使い方のはずだが。
それがそうでなくなったのはおそらくは、将棋倒しで多くの人間が怪我をしたり亡くなる人が出たりという事故が相次いだからではないかと思われる。
片側によって手すりにつかまれという「その場での安全策」である。
そのさらなる安全策の上にあるのは、いうまでもないことだが全員が片側に寄らないことのはずだ。違うだろうか?
もう今では記録は抜かれたようだが、20年前くらいまで日本で一番長いエスカレーターは営団地下鉄有楽町線の永田町駅にあった。池袋サンシャインのエスカレーターもけっこう長かったという記憶があるのだが。
下から見上げるとかなり壮観だったが恐怖感も感じた。「将棋倒しの事故があったらひとたまりもないな」という恐怖である。いつのまにかその長いエスカレーターも他のエスカレーター同様の「片寄乗り」がマナーになってしまっている。当然のことなのかもしれないが。
「これでは機械はたまらないな」そう感じた。
全員が知らず知らずのうちに少しずつ機械の正しい使い方を外していって、結果その総量が自滅への道に繋がってしまっているのだ。
いつだったか、釣り舟の片側だけに釣り客が集中して、横波を受けて船が転覆するという事故があったが、エスカレータの乗客、実はこれとまったく同じようなようなことをやっているのである。
もし仮に、エスカレーターでこの片寄乗りによる大事故が起きたとしたならば、責任を取らなければならないのは誰なのだろう?
エスカレーターの管理責任者であろうか?
違うと思う。エスカレーターの片寄乗りを推奨しているメーカー、管理責任者なんてひとりもいないからだ。
こんなおかしな「マナー」を押し奨めた何者かである。
で、それは誰なんだ?
06.09.09.03:11
2006年9月9日土曜日
2006年9月3日日曜日
「冥王星」問題
冥王星について何か書けと言われた。そういえば少し前に冥王星について書いた事があった。そのときに「冥王星を惑星とするには足りない物があるような気がする」と書いていて、タイムリーといえばタイムリーだったこともあるのだろう。
冥王星が発見から75年後にして惑星から外された。
確かに、個人的にも冥王星を惑星と呼んでいいものなのかどうかは以前から疑問であったが、まさかこういう会議で正式に除外されるとは夢にも思ってはいなかった。
散々言い尽くされたことでもあるが、冥王星を惑星から外したのは天文学的な問題というよりも、どちらかというと人間側の勝手な都合によるものだ。別に新しい発見があったとかその結果をうけてでのものではない。
議論の経緯について軽く触れるが、どういうことかと言うと新たに発見された太陽系内の天体を「惑星」とするかどうかという議題に対して、今までなかった惑星の定義を新しく定めて考え直してみたらそれが「冥王星」にも抵触してしまい「惑星」の下の「矮惑星」というクラス(階級)に落ちてしまったということだ。
つまり厳密に言えば議会で決まったのはこっちの「惑星」に関する定義の方であり、冥王星が除外されたのはその結果をうけただけということも言える。同時にカロンという外冥王星天体もこれで惑星から外されてしまったからだ。
新しく出来た、その「惑星」の定義である。
1 太陽を周回している。
2 自身の重力作用で固まり、球形である。
3 当該天体の軌道周辺で圧倒的に大きい。
この三番目に抵触してしまうのだ冥王星は。そのほとんどを太陽系惑星の最外周を周回している冥王星ではあるが、ときに海王星と周回軌道がかぶったり、内側になってしまうことが今では明らかである。
1に関しては言わずもがなである。歴史的な定義であり、この部分は弄れない。たしえばここに「真円状の」とか、「同一周回面上」という一語を付け加えることも出来たはずだかそれはしなかった。
2であるが、これは最近の天文学の進化で明らかになった太陽系とその惑星の生成から逆に導き出した定義という言い方もできる。
なぜこの2が必要かというと、これで小惑星すべてが落とせるからだ。もし仮に太陽系内に新しく、比較的大きな小惑星が発見されたときの為の対策と考えると解りやすいかもしれない。事前に手を打ったという言い方もできる。今回俎上になったもうひとつの惑星候補「セレス」という小惑星帯最大の小惑星を落とすための口実という言い方もできる。
さて3番目である。意地悪く言えば、冥王星を落とすためだけに付け加えた「定義」といえなくもない。が、なぜこのような定義を付け加えなければならないかといえば1の定義を弄れなかったからだろう。
これでわかってしまう委員会の言い分がある。つまり「歴史的に、今までは1と2の定義でやってきましたがこの度は3を付け加える事となりました。」ということで、「別に間違っていたわけでも、今まで怠慢だったわけではないのです」という言い逃れをしているという邪推だ。
冥王星の立場からすれば、何十億年も太陽の周りをずっと周回していたわけで、誕生して数千万年、文明らしきものをもったのが数千年、やっとみつけて75年ちょっとの地球上の生物に「オマエは惑星ではない」と言われても「それがどうした」という気分であろう。そんなことをいったって冥王星自身はいままでかわらずに太陽の周りを周回しつづけているのだ。
こんなことが議題になるもの、まだ人類の宇宙学がまだはじまったばかりであるという証左という言い方も出来る。これがもし太陽系以外の恒星系にまで学問の範囲が及んだときにどうなるかというとそれはまだまだなんともいえないだろう。
もし仮に、どこかの別の恒星系で完全な形での二連惑星のようなものが発見されたときに、この三番目の定義は意味を成さなくなる。そのときにどうするかだ。再びこの同一軌道という定義自体を新しく定めるのであろうか。その時が来るのが楽しみではあるが、そのとき自分はもう生きてはいまい。どう考えても数百年以上も先の話だからだ。
それにしても、この件に関する日本のマスコミの取り上げ方はかなりおかしかった。
なにを話題にして、なにを問題視しているのかがピンボケで、ほとんどのひとが的外れなことばかり言っていた。マスコミのピンボケ振りは珍しくもなんともないが。
笑ったのは、占星術師の元に押しかけていって「冥王星」が「惑星」でなくなることの影響を聞いていたことだ。馬鹿馬鹿しさも極めればお笑いになるという見本みたいなものであった。
考えてみろ、75年前に冥王星が発見される以前ずっとずっとその前から占星術はあったのだ。占星術の歴史に較べれば「占星術における惑星冥王星の存在」などちっぽけなものだ。もし真面目な顔して「影響はありますねぇ」なんて答える占星術師がいたら自分で自分のいかがわしさを表明しているようなものだ。いねーよ、そんな奴。
少し真面目に考えてみよう。占星術における冥王星の「惑星」としての特徴であるが、地球から見た場合の視差がほとんどないということがある。地球からものすごく離れた位置をゆっくりと周回しているためだ。
地球と比較的近い位置を周回している金星や火星は(地球との)周回差があり、太陽をはさんで向こう側にあったり、すぐ近くを通り過ぎて行ったりするために数年に一度「大接近」だとかいって大騒ぎするのとはまったく無縁で、冥王星は地球が太陽のどのあたりを回っていようとあまりにも遠すぎて見かけ上の位置はほとんど変わらない。もちろん視差と言っても肉眼で見ることなどは出来ないが。
発見までに何十年もかかったのもそのせいである。いくら望遠鏡が発達しても世界中の天文学者が血眼になって探してもなかなか発見できなかったのも他の恒星との位置関係が変化してくれなかったためだ。
また、地球から見た位置が「黄道」という太陽の通り道からかなり離れている。その他の惑星がその黄道の近くをいったり来たりしているのとは大きく異なる。
自分が占星術に興味を持ち出したころ(1975年ころだ)、冥王星は見かけ上、乙女座と天秤座のあいだくらいのところを行ったり来たりしていた。1999年はいて座にあった。なんでそんなことを覚えているかといえば、例の「グランドクロス」があった年だからだが。
今、冥王星はたぶん(これは推測だけで書いているのだが)いて座と山羊座の間あたりにあるのではないだろうか?そんなにおお外れはしていないはずだ。というのも冥王星の位置というのは単純な年進計算で割かし簡単に出せてしまうからである。約30年かけて90度しか変化しない。それが占星術における冥王星なのである。
占星術師たちがそんな冥王星に大きな意味を持たせるはずはない。何故ならそれこそ自分の首を締めることになるからだ。
というよりも、実際にいるのだな、大きなる誤謬を犯している占い師達が。しかもいい気になって人間を幾つかのタイプに分けて「冥王星人」とか名前をつけたりしている大馬鹿占い師がいるのである。本来ならばマスコミが押しかけなければならないのはそいつらのところだろう。
なんでそんな馬鹿なことをしでかすかといえば、最近の占い師たち、天文の勉強が絶対的に不足しているからだ。(というか天文の勉強に真面目に取り組めば占星術などという馬鹿馬鹿しいことなどやる気にならなくなるはすだという突っ込みはなしである)
まず大体にして、大昔の占星術師と違って自分達で天体観測をする必要がなくなったことがある。それどころか15世紀と違って今では何百年先の惑星の位置ですら正確に計算可能になった。そのことがいいことなのかどうなのかという価値判断は置いとくとしてもだ、近年の占い師の頭の中にあるのは実際の天文とは切り離された、バーチャルなゾディアック(天宮図)であり惑星の配列でしかない。
そんなもので何かを占うというのは実に空しいことののはずだ。
自分が世に多くいる占星術師に向かって「占星術なんて馬鹿馬鹿しいから止めろ」とか、人に向かって「占星術なんてニセモノだからそんなもの信じるな」と大声で宣言するものではない。ないが、最近の若手の占星術師に対しては「もっと天文についての勉強をしなさい」と言いたい気持ちはものすごく大きい。「キミたちはものすごい楽をしてはいまいか」と。
そして世の人に対しては占星術というものの限界についてもっと強く主張したい気分である。
そしてそして、朝の番組などで「今日の星占い~」とかいってたった12通りのアドバイスしか提示していないテレビ局に対しては、この犯罪的な行為に対してどうやって対抗策を講じてやろうかと(笑)頭を痛めている最中なのである。
本当に、頭が痛い。
冥王星が発見から75年後にして惑星から外された。
確かに、個人的にも冥王星を惑星と呼んでいいものなのかどうかは以前から疑問であったが、まさかこういう会議で正式に除外されるとは夢にも思ってはいなかった。
散々言い尽くされたことでもあるが、冥王星を惑星から外したのは天文学的な問題というよりも、どちらかというと人間側の勝手な都合によるものだ。別に新しい発見があったとかその結果をうけてでのものではない。
議論の経緯について軽く触れるが、どういうことかと言うと新たに発見された太陽系内の天体を「惑星」とするかどうかという議題に対して、今までなかった惑星の定義を新しく定めて考え直してみたらそれが「冥王星」にも抵触してしまい「惑星」の下の「矮惑星」というクラス(階級)に落ちてしまったということだ。
つまり厳密に言えば議会で決まったのはこっちの「惑星」に関する定義の方であり、冥王星が除外されたのはその結果をうけただけということも言える。同時にカロンという外冥王星天体もこれで惑星から外されてしまったからだ。
新しく出来た、その「惑星」の定義である。
1 太陽を周回している。
2 自身の重力作用で固まり、球形である。
3 当該天体の軌道周辺で圧倒的に大きい。
この三番目に抵触してしまうのだ冥王星は。そのほとんどを太陽系惑星の最外周を周回している冥王星ではあるが、ときに海王星と周回軌道がかぶったり、内側になってしまうことが今では明らかである。
1に関しては言わずもがなである。歴史的な定義であり、この部分は弄れない。たしえばここに「真円状の」とか、「同一周回面上」という一語を付け加えることも出来たはずだかそれはしなかった。
2であるが、これは最近の天文学の進化で明らかになった太陽系とその惑星の生成から逆に導き出した定義という言い方もできる。
なぜこの2が必要かというと、これで小惑星すべてが落とせるからだ。もし仮に太陽系内に新しく、比較的大きな小惑星が発見されたときの為の対策と考えると解りやすいかもしれない。事前に手を打ったという言い方もできる。今回俎上になったもうひとつの惑星候補「セレス」という小惑星帯最大の小惑星を落とすための口実という言い方もできる。
さて3番目である。意地悪く言えば、冥王星を落とすためだけに付け加えた「定義」といえなくもない。が、なぜこのような定義を付け加えなければならないかといえば1の定義を弄れなかったからだろう。
これでわかってしまう委員会の言い分がある。つまり「歴史的に、今までは1と2の定義でやってきましたがこの度は3を付け加える事となりました。」ということで、「別に間違っていたわけでも、今まで怠慢だったわけではないのです」という言い逃れをしているという邪推だ。
冥王星の立場からすれば、何十億年も太陽の周りをずっと周回していたわけで、誕生して数千万年、文明らしきものをもったのが数千年、やっとみつけて75年ちょっとの地球上の生物に「オマエは惑星ではない」と言われても「それがどうした」という気分であろう。そんなことをいったって冥王星自身はいままでかわらずに太陽の周りを周回しつづけているのだ。
こんなことが議題になるもの、まだ人類の宇宙学がまだはじまったばかりであるという証左という言い方も出来る。これがもし太陽系以外の恒星系にまで学問の範囲が及んだときにどうなるかというとそれはまだまだなんともいえないだろう。
もし仮に、どこかの別の恒星系で完全な形での二連惑星のようなものが発見されたときに、この三番目の定義は意味を成さなくなる。そのときにどうするかだ。再びこの同一軌道という定義自体を新しく定めるのであろうか。その時が来るのが楽しみではあるが、そのとき自分はもう生きてはいまい。どう考えても数百年以上も先の話だからだ。
それにしても、この件に関する日本のマスコミの取り上げ方はかなりおかしかった。
なにを話題にして、なにを問題視しているのかがピンボケで、ほとんどのひとが的外れなことばかり言っていた。マスコミのピンボケ振りは珍しくもなんともないが。
笑ったのは、占星術師の元に押しかけていって「冥王星」が「惑星」でなくなることの影響を聞いていたことだ。馬鹿馬鹿しさも極めればお笑いになるという見本みたいなものであった。
考えてみろ、75年前に冥王星が発見される以前ずっとずっとその前から占星術はあったのだ。占星術の歴史に較べれば「占星術における惑星冥王星の存在」などちっぽけなものだ。もし真面目な顔して「影響はありますねぇ」なんて答える占星術師がいたら自分で自分のいかがわしさを表明しているようなものだ。いねーよ、そんな奴。
少し真面目に考えてみよう。占星術における冥王星の「惑星」としての特徴であるが、地球から見た場合の視差がほとんどないということがある。地球からものすごく離れた位置をゆっくりと周回しているためだ。
地球と比較的近い位置を周回している金星や火星は(地球との)周回差があり、太陽をはさんで向こう側にあったり、すぐ近くを通り過ぎて行ったりするために数年に一度「大接近」だとかいって大騒ぎするのとはまったく無縁で、冥王星は地球が太陽のどのあたりを回っていようとあまりにも遠すぎて見かけ上の位置はほとんど変わらない。もちろん視差と言っても肉眼で見ることなどは出来ないが。
発見までに何十年もかかったのもそのせいである。いくら望遠鏡が発達しても世界中の天文学者が血眼になって探してもなかなか発見できなかったのも他の恒星との位置関係が変化してくれなかったためだ。
また、地球から見た位置が「黄道」という太陽の通り道からかなり離れている。その他の惑星がその黄道の近くをいったり来たりしているのとは大きく異なる。
自分が占星術に興味を持ち出したころ(1975年ころだ)、冥王星は見かけ上、乙女座と天秤座のあいだくらいのところを行ったり来たりしていた。1999年はいて座にあった。なんでそんなことを覚えているかといえば、例の「グランドクロス」があった年だからだが。
今、冥王星はたぶん(これは推測だけで書いているのだが)いて座と山羊座の間あたりにあるのではないだろうか?そんなにおお外れはしていないはずだ。というのも冥王星の位置というのは単純な年進計算で割かし簡単に出せてしまうからである。約30年かけて90度しか変化しない。それが占星術における冥王星なのである。
占星術師たちがそんな冥王星に大きな意味を持たせるはずはない。何故ならそれこそ自分の首を締めることになるからだ。
というよりも、実際にいるのだな、大きなる誤謬を犯している占い師達が。しかもいい気になって人間を幾つかのタイプに分けて「冥王星人」とか名前をつけたりしている大馬鹿占い師がいるのである。本来ならばマスコミが押しかけなければならないのはそいつらのところだろう。
なんでそんな馬鹿なことをしでかすかといえば、最近の占い師たち、天文の勉強が絶対的に不足しているからだ。(というか天文の勉強に真面目に取り組めば占星術などという馬鹿馬鹿しいことなどやる気にならなくなるはすだという突っ込みはなしである)
まず大体にして、大昔の占星術師と違って自分達で天体観測をする必要がなくなったことがある。それどころか15世紀と違って今では何百年先の惑星の位置ですら正確に計算可能になった。そのことがいいことなのかどうなのかという価値判断は置いとくとしてもだ、近年の占い師の頭の中にあるのは実際の天文とは切り離された、バーチャルなゾディアック(天宮図)であり惑星の配列でしかない。
そんなもので何かを占うというのは実に空しいことののはずだ。
自分が世に多くいる占星術師に向かって「占星術なんて馬鹿馬鹿しいから止めろ」とか、人に向かって「占星術なんてニセモノだからそんなもの信じるな」と大声で宣言するものではない。ないが、最近の若手の占星術師に対しては「もっと天文についての勉強をしなさい」と言いたい気持ちはものすごく大きい。「キミたちはものすごい楽をしてはいまいか」と。
そして世の人に対しては占星術というものの限界についてもっと強く主張したい気分である。
そしてそして、朝の番組などで「今日の星占い~」とかいってたった12通りのアドバイスしか提示していないテレビ局に対しては、この犯罪的な行為に対してどうやって対抗策を講じてやろうかと(笑)頭を痛めている最中なのである。
本当に、頭が痛い。
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