2006年7月11日火曜日
「谷間の世代」はもう死語なのか (重複)
前の記事で「谷間の世代」という言葉を使ったらさっそく「なにそれ?」という質問が来た。
アテネ五輪も遠くになりに蹴り、というやつか。サッカーだけに。
「谷間の世代」というのは現在25才前後の、2001年ワールドユース大会、2004年のアテネ五輪を戦った世代のことを指す。
具体的に名前を出すと、松井大輔、阿部勇樹、佐藤兄弟、駒野友一、今野泰幸、茂庭照幸、大久保嘉人、高松(大分)、山瀬(浦和)、前田(磐田)、石川(F東京)このあたりがそうだ。最後はフルネームで出てこなくなったが(笑)。
名前を見ただけでも層々たるタレントが並ぶのだが、何故かU17時代から国際大会での成績が芳しくない。世界ユース大会では予選(グループリーグ)落ち、アテネ五輪でもイタリア、パラグアイとは激しい互角の戦いを繰り広げながらも0勝3敗でグループリーグ敗退と結果がついてこない。
とにかく怪我人が多く、まともに全員が顔をそろえたことのないので「夜間学校」と陰口を叩かれたこともあったくらいだった。
その前の世代、いわゆる小野・高原・稲本などのいた、いわゆる「黄金世代」が1999年トルシエ監督に率いられてナイジェリア大会で準優勝、シドニー五輪でもベスト8とかなりの好成績を収め、そのあとの2003年UAE大会の世代も、ブラジルに破れたもののベスト8という成績を収めているので「谷間の世代」と呼ばれたのだ。
というか、もともとはU17世界大会出場を逃し、いきなりユース世代になってから国際大会に出場したために、強化の橋渡しを行なわなければならなくなったので「谷間の世代」と呼ばれただけだったのだが。
谷間の世代はサッカーだけではない。昭和41年生まれの人口もガクッと少ないので「谷間の年代」と呼ばれる。
芸能界では1980年生まれ(81年3月まで)の女性芸能人がよく「谷間の世代」と呼ばれる。野球でいうところの松坂世代である。
井上和香、優香、根本はるみ、酒井若菜、小池栄子、乙葉、眞鍋かをり、とずらっと並ぶからである。
谷間の意味が違うが。
かくいう自分も何度か「谷間の世代」呼ばわりされたことがある。特にトラウマに近い記憶なのだが、高校に入学してすぐのオリエンテーションかなんかで、学年の教科主任の教師に、「来年再来年から学区割制が施行されるのでむこうにゆけなくなった優秀な生徒が多人数こっちに入って来るのできっと君達はかなわないだろうね」と軽く言い切られたのだ。非常に不愉快な記憶として残っている。
それと、何故かは判らないが、やたら政治家の少ない年代でもある。そのせいか政治無関心層の中心と叩かれたり、政治の低気圧世代といわれたりもする。
おおきなお世話なのだが。
「谷間の世代」とは、言い換えれば「システムの変更を司らなければならない」世代でもあるからだ。
だからか、「谷間の世代」という言葉を聞くと自分は必要以上に敏感に反応してしまうのかもしれない。
ああ、まあ女性芸能人のことも含めてでの話ということでいいけど。
おそらくは、次のサッカーA代表も今までとはドラスティック(急変)に違ったものになるであろうと期待もし、不安を持ってみている。
なんかヘンなまとめになるが、彼らの奮起を促す意味で「谷間の世代」という言葉は死語扱いはしないほうが日本のサッカー界のためになると思っているのだが。
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2006年7月10日月曜日
Tom Verlaine Dreamtime 1-4
1981年発表。テレヴィジョンを解散後に発表したファーストアルバムに次ぐ、トム・バーレインのソロ第二作目である。
最近古いレコードを整理したらクラッシックのアルバムに挟まれるような感じでひょっこり出て来た。
前にも書いたが、現在ヘッドアンプが無いのでレコードを聴く事ができない。聴いて聴けないこともないのだが今使用しているプリメインアンプにはPHONE入力がないのでAUX(その他)に繋いだり、CD端子に繋いでもただのシャリシャリ音にしかならない。
イコライザー機能の付いたプリアンプでもいいのだが、RIAA曲線(補正曲線)を再現しようとすると別にもう一台メインアンプが必要になりかえって手間と金がかかってしまう。
レコードプレーヤー用のヘッドアンプを買うか作るか、でなければ最初からヘッドアンプ付のレコードプレーヤーを買ったほうが安上がりで手間もかからないというわけだ。
で、今度は古いカセットテープを整理していたところ、今度はこのアルバムをダビングしたものを発見した。
昔、女の子にあげるつもりでいたのがそのままになっていたのが残っていたらしい。
で、こういう経緯があって久しぶりにこのアルバムを聞くことが出来たのだが、当時持っていた印象とその記憶はかなり違ったものを感じることが出来た。
当時、トム・ヴァーレイン(テレヴィジョン)は、パティ・スミスらと並んでいわゆるアメリカの「ポスト・パンク」、ニューウェーヴのひとりとして位置付けられていた。音も、まあそんなもんだ。
しかし、ソロ名義になって発表されたこの2枚目のアルバムになるとかなり方向転換をしている。
テレヴィジョンの音を正統に進化させたようなファーストアルバム(邦題『醒めた炎』)とはかなり違って聞こえてしまう。
コンクリート剥き出しのガレージ内で録音したかのような過剰なエコー音が影をひそめ、音から普通のスタジオで録音したことが偲ばれてしまうような暖かさや柔らかさすら感じてしまう。
これは進化ではなく退化というものではないだろうか。そう思ったのである。
さらに、がらりと、とまではいかなくても「不必要じゃないか」と感じるような妙にメロディアスで感傷的な曲が目立つ。
ベタな表現だが、出来の悪い「パティ・スミスの曲」みたいに聞こえてしまう。
それでも今聞いてても違和感を覚えなかったのは詞の誠実さである。
これだけは不変であった、今聞いても。それだけが救いであった。
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ドリームタイム その2
というか、実は本当のことを言うと、自分が本当に書きたいのはこのトム・ヴァーレインのアルバムの音のことではない。
このアルバムにまつわる思い出のほうである。
いろいろあって自分にとってこのアルバムには忌まわしい思い出しかなかった、当初は。
1985年のころ、自分はある広告代理店の社員だった。そのころ、地元の私立大学に通っていた女子大生と短い間だけだが交際していたことがあった。ピアノの上手な、色白で小柄な女性だった。名前はゆかりという。
話をしていて高校時代の担任の教師が同じ人物だということがわかったのが仲が良くなったきっかけであった。
自分が高三のときに、その教師がゆかりの出身女子校に転任したことを覚えていたのでそのことを話題にしたら判明した事実であった。
たしか七夕(仙台のことなので8月)の最終日のことだ。やはりご多分に漏れずその日も大雨で、ふたりは繁華街のあちこちに残った七夕飾りをひとつひとつ確かめながら駅前方向に歩いていた。
その中に何故かこのトム・バーレインのアルバムの裏ジャケットの写真があったのだ。
まあ、正確な言い方をすればジャケットに使われた写真のオリジナル、ということになるのであろうが。
モノクロのマンハッタンの夜景写真なのだが、ゆかりはそれを指差して「キレイねぇ。」と微笑んで見せた。子供のような無邪気な笑顔であった。
それからしばらくして、自分の部屋でこのトム・ヴァーレインのアルバムジャケットの裏をじっと見たゆかりは「良く見ると、なんだかコワい感じ・・・」と言った。
その感覚は正しい。今でもそう思う。
さらにその数年後、自分はニューヨークのセントラル・パークをニューヨーク在住の友人と歩いていた。まだ日が落ちてまもないころだ。
そのころニューヨークではこのセントラルパークの再生運動が実を結んでかつてないほどの治安を取り戻し、多くの人々が行き交う場所となっていた。
ふと見上げた光景、目の前にある風景が目に飛び込んでくると、自分は激しいデジャヴュ(慨視感)に見舞われた。
どこかで見覚えがある光景だった。そして暫しのあいだ頭をめぐらせ、やっと今自分が、あのトム・ヴァーレインのアルバムに使われた写真と同じ場所、同じ向きに立っているということに気が付くのであった。
その場所は、思った以上にのどかであった。あの写真を見て感じる、迫り来るビルの恐怖感はどこにもない。
その友だちからセントラルパークで撮った写真が送られてきたのは4年前、つまり2002年の夏のころだった。
きっと見る人間の思い込みがそうさせるのだろうが、デジカメで撮ったその写真の中マンハッタンは9.11のショックからまだ立ち直っていないニューヨークの怯えのようなものが見て取れた。
とにかく、窓という窓に明かりにが灯り、それが闇を怖れた住人の心情を反映しているかのように見えたからだ。
今再びこうしてトム・ヴァーレインのドリームタイムを聴きながらこの写真を眺めていると、あのとき感じ、そして長らく忘れていたその恐怖について考えざろうえなくなってしまうのである。
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ドリームタイム その3
現在のセントラルパークの同じ方角から見た光景
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ドリームタイム その4
2006年夏、ニューヨークは再び平安を取り戻したようだ。
しかし実際にニューヨーク マンハッタン島に住んでいる友人に言わせれば、それは単なる表面上の話であって、実際にえぐられたこころの傷が癒えたとかそう云うことではないという。
一時期、ニューヨークの街角のいたるところには手作りの顔写真入りのポスターがペタペタと貼られていた。9.11行方不明になった人間の情報を求めている家族が貼ったものだ。
今でもそういうポスターはところどころに見受けられるという。貼りっぱなしにしてあるのではない。新たに更新されているのだ。
「きっとなくなることはないと思うよ、家族が全員死ぬまでは・・・」友人がそう説明した。
映画「ブレード・ランナー」の中でレプリカント(人造人間)達は何故か写真に固執するという下りがあった。一種の無いものねだりがそうさせるのだという説明があったような気がする。
今の自分もそれに近いものがある。
実は、自分が20代のころ、特に22~3才のころの写真がほとんどないのだ。
貸したままになっている写真があったので返してくれと頼んだら、「ああ、ゴメン、捨てちゃった。」と軽く言われたことがあった。
まったくもって酷い話である。
昔の別れた女で相当数持ったままというのもいる。
どういうつもりか知らないが「思い出と一緒に焼いてしまいました。」などといってのけた女がいた。言わせてもらえれば、そんなのただのオナニー行為である。馬鹿か、返せよ。燃やすなら。
そんな中で奇跡的に手許に帰ってきた一枚の写真がある。ゆかりが送り返してきた写真であった。
「私にとっては重荷ですが、きっとあなたにとっては大切なものでしょうからお返しします。」との一文が添えられていた。
思わず涙がでそうになったくらいだった。お互いのこころの中に残る「想い出」だけは「無事」に残ることとなった。
自分はその手紙を封筒に入れたままトム・ヴァーレインのレコードジャケットの中に入れっぱなしにしていたのだが、それをすっかり忘れていた。そしてそれを発見したというわけだ。
そしてこのアルバムの裏ジャケットをじっとみつめ「よく見ると、なんだかコワい・・・」と言ったゆかりの言葉が脳裏に蘇った。
こうして2006年7月、再びマンハッタン島のその場所に向う自分の眼前にはあの「アルバムジャケット」の写真そのままのセントラルパークがあったのだ。
ニューヨークという街は今確かに怯えている。
というストーリーを頭にいれてこのドリーム・タイムの裏ジャケットの写真をご覧下さい。
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