ブログジャーナリズム誕生前夜
これはまことにもって皮肉な話だとは思うのだが、今、日本からは真の意味でのジャーナリズムというものは消えかけている。死にかけているといってもいいのかもしれない。
自分は今別のところで予言者を名乗る「ジュセリーノ」というブラジル人の嘘を暴く内容のブログをやっているのだが、そういう立場になってみてしみじみとそのことを知らされ、感じさせられるのである。
自分がやっているそのブログは決して「ジャーナリズム」というようなものではない。そのことは予め言っておくが。
しかし、このブログが期で本物のジャーナリストと呼ばれる方々とメールをやりとりしたり、時には直接(電話で)話をしたりするという機会を得ることが出来た。
そのたびに自分が彼らに訴えたのは「現地ブラジルでのジュセリーノについての実情というものを調査すれば、このジュセリーノという予言者の正体なんかすぐにわかる」ということだった。
それからどれだけの時間が経ち、どれだけの人たちにこのことを訴えたのだろうか?
にも関わらず自分のこの訴えというものが実現されたことは一度もないのである。
それどころか、その後になってもテレビや雑誌ではこのジュセリーノのことを本物の予言者であるという立場での扱いだけが広がった。
その結果何が起こったのか?
いうまでもない、「9月13日に名古屋でM8.6の大地震」という心無いデマ騒ぎである。
このデマを生んだもの、それはいろいろとあるだろうが、そのひとつはあきらかに「ジャーナリズムの怠慢」だったと自分は思っている。
そしてこれからもこのようなデマ騒ぎというものは何度となく起きるのであろう。
誰の為に、何の為にかはわからないが。
さて、今さっき自分は「自分のブログはジャーナリズムではない」と言ったが、「ネットの世界」という隔絶された中において、つまり「ブログ」の世界に置いてはやはりジャーナリズムの役割というものも果たしているという側面もあるということは考えている。
これはベタな例えになるが、一種の平行進化のなせる業だと思っていただければと思う。
たとえばオーストラリアには「有袋類」という哺乳類の一種が繁栄している。カンガルー、コアラ、これらは皆「有袋類」の一種なのである。なんだかへんなかんじもするかもしれないが、カンガルーというピョンピョン飛び跳ねて走り回る動物は見た目なんとなくウマであるとかシカの仲間に近い感じがするし、ユーカリの木の上で葉っぱを食ってのっそりと生活しているコアラはカンガルーの仲間というよりも「クマ」であるとかに近い感じがしてしまうが、コアラもカンガルーも実は「有袋類」という同じ祖先を持つ動物が進化して枝分かれした近種の動物なのである。
これと同じことが今ネットの世界にも起きていると思っていただきたいのである。
ブログというものも、さまざまな形に進化し枝分かれして、たとえばあるブログは「公開日記」のようなものになり、またあるものは「音楽配信の情報」に特化し、またあるものは「動画チャンネル」に、という具合にそれぞれがそれぞれの役目を持って進化しているのだ。
そしてあるグループのブログは同様にして「報道」にと特化し、そしてその中のいくつかは「ジャーナリズム」に対応するブログに進化しているのだと。
これらの「ブログ・ジャーナリズム」の可能性についてならば実は自分はいつでも「本家本元のジャーナリズム」にとって代われる可能性はあると思っている。
それだけ本家のジャーナリズムというものがだらしなくなったからだ。
複雑に絡み合った利害関係というものを重視して、本来伝えるべきことを伝えなくなったジャーナリズムなどもうジャーナリズムとは呼ばない。
思い起こせばたった二年前のことだ。ニッポン放送株取得で揺れたあのころ、当時ライブドアのCEOだった堀江貴文は「ブログがジャーナリズムにとって代わることは可能だ」という旨の発言をしてマスコミに袋叩きにされた。
まあ面と向ってケンカを売られたのと同じことであるから、彼らがこの堀江発言に猛反発をしたのは当然である。
しかし、この発言の主意というものについてよく考えてみれば、堀江貴文が示したのは「メディアの将来図」というものであり、そういう意味で彼は間違ってはいなかった。
それどころか、そのたった二年後である今現在になって、自分はこの堀江貴文の発言は正しいのではないかという実感すら抱いている状況である。
というよりも、自分は真実の報道の出来ないジャーナリズムだったら即刻全部死んだほうがマシなのではないか、そのほうが日本のためになるのではないだろうかと、そういうことを考えるに至っているのだ。
雑誌が売れないであるとか、新聞が売れないというような状況は誰が招いたのか。
あるいはテレビの視聴率が軒並みダウンしているのはどうしてなのか。
結局、自分達の怠慢なのだ。そうやってなんの危機感ももたずに安穏として碌を食んでいた結果が自分たちの首を締めるような結果となって帰ってきているだけなのではないだろうか。
果して、そのことを真剣に考えているメディアというものはあるのだろうか。
もし、自分の領域を守ろうとするのであれば、それは新たな「敵」を潰すことではない。
自分達の使命とはなになのかについて改めて考え直すことではないのだろうか。
2008.09.21
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