2011年9月30日金曜日

日進市の花火

愛知県日進市が花火大会で福島で製造された打ち上げ花火の使用を急遽中止の決定。市民からのクレームが相次ぐ。http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110919/dst11091913470009-n1.htm


なんというのか・・・んー・・・京都大文字焼きの件といいこれといい、いろいろと考えさせられたニュースであった。

このクレームを入れたという市民のことを笑いものにするのはものすごく簡単なことだろう。

なにしろクレームの内容がほとんど片足をオカルトに突っ込んだようなものだからだ。「(花火で)放射性物質が拡散する」という表現にそれがあらわれている。

むしろ「放射性物質云々」の下りよりも、このクレームの主たちが「花火」というものをどのように捉えているのかが丸見えになってしまっている。

(同位性)セシウム(元素)など、比較的半減期の長い放射性物質が地表に降り注ぎ、それが積もって外部被曝のもとになるのでは…という不安があるというのならば、それはわからなくもない。

しかし、直径1メートル(表面積4平方メートル未満)の球体の表面に付着した微量の放射性物質が拡散するということがどういう意味を持つのだろうか。

おそらく、このクレームをつけたという日進市市民には花火というものがどういうものなのかがよくわかっていないのだろう。そう考えるしかない。

しかも、何故「福島の花火」だけが取りざたされたのだろうか。

これもよくわからない。

もしこれが「花火大会そのものを中止しろ」というクレーム(とそれらに従うような市の判断と決定)ならば自分はまだ納得できただろう。

(これは自分の想像だが)おそらく、この日進市の市民は「自分達は放射性物質に被曝されていない清浄な地区に住んでいて、そこに被曝した福島から放射能汚染されたものが運ばれてくる」という勘違いをしているのではないだろうか。

残念なことだが、愛知県日進市も(日本どこでもなのだけど)被曝された土地であることは免れない。

ただ、福島原発の事故で大気中に広がった放射性物質が原因なのかどうかがはっきりとしないだけの話であって。

むしろこの事実を認めたくないという人たちがいたというだけのことなのかもしれないが。

自分としてはこういうカタチで、つまりニュースで「愛知県日進市」という市の名前を記憶することになってしまったことがとても残念である。

おそらく日本の多くの人が自分同様に「ああ、あの(花火大会の)日進市ね」という感じで日進市の名前を記憶に刻んでしまうのであろう。たぶんこの記憶は人々の記憶からは中々消えないのだろう。

考えて欲しい。そっちのほうが「放射能汚染」よりも百倍も1千倍もやっかいなことなんですぜ。

2011.09.20



2011年9月12日月曜日

くりかえされる悲劇は食い止めたいという切なる願い

2のほうに書くべきことなのかもしれないが、まずとりあえずこちら「3」に書き始める。

「なんでそんなにいちいちどうでもいいようなオカルトテレビ番組に対してつまらない文句をつけるようなことばかり書いているのでしょうか」とか「オカルトに対してもっとポジシブ(ポジティブ)に考えられないものでしょうか?」というようなことをコメントで書いてくる人が未だに絶えない。

どうしたものなんだろうね。

これまでもこのような(同じような)質問に答えるようにして、同じことを何度となく書いてきたわけだし、ここで再び繰り返してもいいのだけれども、さすがにもう十回近くも同じことばかり書いてきて、はっきり言って(このようなコメントが来ると)バカからしく感じるようにさえなっている。

まず、これも何度も繰り返して書いてきていることだけれども、自分はなにもオカルトそのものを全否定しようとか(オカルト全否定が)出来るなんてことは一度も書いてしないし、もちろんそんなことはちっとも思ってはいない。

自分がここで繰り返して強調しているのは「テレビ番組に登場するようなオカルトはもうオカルトとは呼ばない。ただのインチキオカルトでしかない」ということ。

最近のそのわかりやすい例が「不可思議探偵団」というテレビ番組で取り上げた「マヤ暦とマヤの予言、人類滅亡の予言」であり、「エレーニン彗星が今年10月に地球に衝突する(マーク・サーカス説)」である。

いうまでもないことだが、このふたつそもそもどちらもインチキであり嘘である。

マヤ暦というものは確かに存在するし、マヤ人の神話にはこの世の終末(繰り返し)を描写したものはあるが、このふたつ(暦と神話)はそもそも別のものである。このふたつをくっつけて「マヤの長期暦は2012年で終わりになっている。それはマヤ人が2012年に人類が滅亡することを知っているからだ」というような説が出て来たのは割りと近世になってからで、しかもこれを言い出したのはマヤ人たちではない。

そんなことを言い出したのはごく最近になってからの欧米のオカルティスト達である。

初端はホゼ・アグエイアス(José Argüelles)という人物らしい。[註→追記あり]

この日本では、どうもこのようなオカルトを飯のタネしている連中は、この事実はちゃんと知っていて、それを隠すようにして「人類2012年滅亡説」を唱えているようなのだ。(グリアさんによる)

で、この「マヤ予言」を取り上げたテレビ番組であるが、こういう番組を作っている(プロデューサーとかディレクターを含めての)連中はこの事実は知っているのかどうかだが、グリアさんによると「相当に疑わしい」ということになるらしい。

実際自分もこの「不可思議探偵団」という番組をふたつばかし観ただけなのだけれども、「ああこいつら確信犯[※誤用]だな」という印象はある。

なんでかというと、日本テレビでは2009年にもやはり「2012年人類滅亡」を謳った特別番組を制作し放送しているのだけれども、それとの流れでいうと、その2009年の番組で扱ったもののうち、嘘、インチキをここで指摘したものがすっぱりと切られていたりするからだ。


[註→追記]そのグリアさんから再びメールを頂いた。なんでもホセ・アグエイアスが今年3月になくなったというのだ。グリアさんはメール内で相当に辛辣な表現をなされている。読んでいて自分も思わずニヤリとしてしまったのだが、それをそのまま書くと、まるで自分が(そしてグリアさん本人も)人の死を笑いものにしているかのように誤解する人がでないとも限らないので、そのままの表現はここでは割愛する。
単純に言えばアグエイアスの唱えていた2012年説は結果的に間違いであることが彼の死によって証明されたということなのだが。

※今までここではJosé Argüellesの日本語での表記を「ホセ・アグイアス」にしてきたが、ウィキペディア・その他のサイトでの表記に従い「ホゼ・アグエイアス」に改めることにした。

2

考えるまでもない。

もし、前回(2009年)放送した内容に事実とまったく違っていたり、のちに事実ではない(嘘)と判明したというようなところがまったくないというのであれば、なにも今回使用したV(ビデオ素材)もそのまま堂々と使い回しをすればいいだけだ。

前回の放送と今回の放送をふたつとも見たという方、あるいは録画したものをチェックしたという方のほとんどが同じような解析をして、ほとんどわたしと同じような結論に至っている。

要するに「彼らは前回放送した内容に嘘(インチキ)があると認めたことに他ならない」ということ。

つまり、二度目以降の放送で同じVを使い回しするときにコソコソと小さな修正を施したものを出してくること自体、前に放送したものの中に「嘘」や「インチキ」があったと自らが認めたということにほかならないと多くの人が結論づけているのだ。

(これもいつも書いていていることなのだけれども)本当ならば、このようなオカルトテレビ番組(つまりインチキオカルトテレビ番組)は、自分(=かまた)のような素人・半素人のブロガーにインチキを指摘されるような醜態をさらす必要はない。

はじめから番組のアタマか終わり、あるいは両方に「この番組はフィクションです」という断り書きを入れればいいだけなんだから。

3

今、地上波テレビ番組・あるいは放送局を取り巻く環境は次第に苛酷になってきている。

本来ならばテレビ業界を潤すための方策であったはずの「地上デジタル化」が実現したところ、彼ら(テレビ)の思惑とはまったく逆ベクトルで「テレビ」は生産性を縮小する方向に動き出している。

誰が見てもテレビというメディア、「沈みゆくもの」になってしまったのである。

それをちゃんと理解していて、この深刻な事態を苦慮しているテレビ界の人は多いだろう。

しかし、その中にいて、未だこのような「インチキオカルト」で視聴者の目を惹こうとか数字を取ろうとか考えているような愚かな製作者がいるのであれば、それはやはりテレビに巣食った「ガン細胞」みたいなものでしかない。

その存在そのものが主体である「メディアとしてのテレビ番組」を蝕み、そしていずれ死をもたらすガン細胞なのである。

そのスケールダウンしたモデルケースこそが『不可思議探偵団』という番組の終了(番組の死)であると捉えることは決して暴論にはならないはずだ。
2011.09.09

4

その「オカルトをポジティヴに捉える」という表現も、耳障りもなくちょい見カッコいいように感じる方もいるかもしれないが、よくと考えて欲しい。

彼らが言っているのは「ネガティヴ(否定的)」の反対語である「ポジティヴ(積極的、肯定的)」ではなくて、「アクティヴ(行動的)」の反対の概念である「パッシブ(受動的)になれ、オカルトをそのまま受け入れろといっているようなものだからだ。

本当の意味での「ポジティヴ」とは、自分のアタマで考えて判断すること。

つまり、それ(=オカルト)が事実なのか真実なのか、あるいは嘘っぱちに過ぎないのかの判断は自分の頭脳で行うということだ。

それが出来ずにただ「そういわれているらしいから…」と受け入れてしまうことは「ポジティヴ」でもければ「アクティヴ」でもない。

テレビのオカルトをまんま受け入れるなんていうのはネガティヴでありパッシブなことなんだよ。

つまり、ワタシ的に言えば愚か者以外の何者でもないとなる。

ましてやそんな愚か者の集団に仲間入りしたり、あるいは勧誘したりする人間のことをこの自分が黙って見逃すわけもないだろう。

それがそのまま全てというのではないが、自分がここ(ブログ)でテレビオカルトのネタばらしをしているモチベーション(動機)を説明するとそういうことになる。

このことは最初に挙げたコメントの人たちには伝わっているのだろうか。

自分にはそうではないような気がしてしてならない。そこがもどかしい。
2011.09.12

5

自分はそもそもオカルト的なものについてならばそんなには嫌ってはいない。

純然たるフィクションとしてということならば、むしろ好きなほうだろう。

まあだから言うのだけれども、テレビでやるようなオカルトモノについては毛嫌いしている。

嘘(つくりもの)として見た場合はど下手の部類に属するようなものばかりだからだ。

どうもね、たとえば「本当にあった…」系のホラーものとか、この漂う下手さ加減を誤魔化す方便として「実話である」というようなことを強調して利用してはいまいか。

特にここ数年、いわゆる「都市伝説」的なものを含めて、このような意図的にレベルを下げているようなテレビ番組が多すぎはしないだろうか。

なんかね、番組が始まってすぐにチャンネルを変えたくなるようなものばかりじゃないかという印象なのだが。

あなたはどう感じているだろうか。ちょっとこの件に関してはなるべく多くの方の意見というものを聞きたいと願っています。よろしければコメントをお願いいたします。

2011.09.13

6

早速いくつかご意見を頂いた。ありがとうございます。

大きく分けると

[1]テレビでオカルト番組をやることに対して嫌悪を感じているというような方

[2](かまたの言うとおりで)最近のオカルト番組はどこの局のを見ても同じようなものばかりで辟易している。飽きた。

[3]「本当にあった」といいながら、「誰が見たんだ 体験したんだ」とか「盛ってる」と言いたくなるのが多い。(つまりつくりものなんでしょという)意見

[4] その他 この中には「そんなにいやなら見るな」的なものも含める

となる。

中には「いくらアンタが頑張ってもテレビからオカルトは消えませんよ」というような勘違い意見を書いてきた人もいたが。悪いがこのコメントには思わず笑ってしまった。

んー…どこから説明すればいいのだろうか。

何度も説明しているとおりで、自分が問題視しているのは「テレビでやるオカルトには嘘が多い。いや嘘ばっかり」ということだ。

だからここ(このブログ)では、その「テレビオカルトに必ずついて回るインチキと嘘」を説明し、そんなまどろっこしくみみっちいことは止めて最初からフィクションを謳ったほうがいいのでは?…と提言しているのだけれども。それがわからないのか。

一方、かなり深く頷いてしまったご意見も届いている。

それは(多分、自分よりも年配の方からのメールなのだけれども)最近のテレビ番組は局独自のカラーというものがまったく感じられなくなったというもの。

昔、つまり30年ほど前(1980年代後半)は、民放のどの局の番組にも独自のカラーというものがあった。局独自のポリシーというものがあって、中にはこのようなオカルトものをバンバンやっているテレビ局(つまり日テレだな)もあれば、それらに対して冷ややかで批判的な局もあったのだが、いまではどのチャンネルを見ても同じようなものばかりが流れている。これは民放テレビ局が衰退し、広告代理店がチカラを持つようになってテレビ製作の現場に気骨のあるテレビマンがいなくなったということだろう。これではテレビ番組がつまらなくなって当然だし、オカルトものもインチキばかりが横行するだろうというご意見。

つまりオカルトをやる局とそれを批判する局(ネタバラシをする局)という色分けがなくなり、オカルトをやれば数字が取れるという甘い誘惑に勝てない局ばかりになったということなのだろう。

なるほど。確かに自分もそのとおりだと思う。

しかし、この方が述べている「オカルトのインチキバラシをするような気骨のある局があればむしろ視聴率は上がるだろう」という提言には自分は疑問を禁じえないでいる。

2011.09.16
つづく