40才過ぎていろいろと考えることは多い。特に人の生き死にについては若いころとはかなり違うスタンスで考えてしまうようになった。
同い年どころか自分よりも若い人間でさえ、病気や事故である日突然この世から消えてゆくのも稀なことでもない。
自分がいま立っているこの足元さえ確かなものではないのだという漠然とした不安からの脱却は簡単ではない。「これからもこの見えない穴だらけの道を歩いてゆくのだ」という覚悟のようなものが芽生えるまでには時間が必要であった。
そんな自分だからこそ、安易なオカルティズムへの傾倒に対して警鐘を鳴らし続ける。オカルティズムとは、結局のところ死を恐れる人間が脳内で組み立てた科学という名を借りた貧弱な理論づけでしかないからだ。死を恐れはじめた人間が、今まで自分が得た知識の範囲内だけで組上げた、中身の貧弱な、外側だけは取り繕った見せかけだけの天国、それがオカルティズムというものなのだ。
死後の世界は果たして存在するのか、霊とはなんなのか、まだ誰も証明できない事柄に対してあやこれやいいたくなる気持ちはわからないわけでもない。しかしそれらの実在を人に語るだけの確かなバックグラウンドや研究、検証なしに「霊」や「前世」や「あなたたちだけの神」の実在を安易に触れ回っていいものなのか。どう考えても、それらを共有するためには、まだまだ長い時間が必要なはずなのだ。問題なのはそれに対してただ単に人間の寿命の方が短すぎるだけなのだが。それに気がつかない人間は多すぎる。
自分の経験から言っても、この世には不思議なことは確かに多数存在する。特に、偶然の一致では済まされない出来事には何度も遭遇しているし。(※池袋事件 有楽町事件 恵比寿事件 日暮里TRICK事件 参照)
だからといってそれらを簡単に神の仕業であるとか守護霊の導きと言って結論づけてしまうのは、言ってしまえば一種の思考停止であり、人であることを放棄する愚かな行為である。まず、自分の脳内や視神経や聴覚臭覚と言った五感を疑うところからはじめたほうがよい。
かつて自分の周りには、怪しげな宗教やオカルトに傾倒してゆく人間がかなりいた。今はあまりいないが(っていうか自分みたいな口うるさいのが近くにいると煩わしいからみんな逃げてゆくだけなんだろうなw)。
知り合いの女性がいた。広告の仕事をしていたときの仲間のひとりである。彼女が30を目前にしたころ、突然という感じで「波動」とか「高次元の存在」とかの世界を標榜する団体の会員になり、周りの放送・広告関係の人間を勧誘し、自分を中心とするサークルを作り始めた。自分も誘われた。もちろん自分は当然の義務として(自分の仕事として)彼女の論拠となるものを根本部分からひっくり返し、ぐうの根も出ないくらい論破してしまった。あまり気持ちのよいことではなかったし、それが本当に彼女の為になったかどうかはわからない。それでも自分に充足感のようなものがあったとすれば、彼女に誘われて入会してしまった何人かが、そのサークルから遠ざかり脱会するだけのきっかけにはなったことだった。うちひとりはラジオのDJとしても活動していたので、そういう人間が公共の電波を使ってオカルト伝道をすることは確実に阻止できたのである。
改めて言う。神とか霊とか前世とかを科学の範疇で語るのはずっとずっと先の世代に任せればいい。いまこの世に生きている人間がそれをやろうとするのは分不相応なのだ。一種の勘違い思い込みでしかないのだよと。ひょっとしてオカルティズムに傾倒し、「私は神の声が聞こえる」とか「霊感がある」ということは、一種のエリート意識のような優越感のあることなのかもしれない。がしかしそれはよくよく冷静になって考えてみれば、まっとうな人間から脱落したと宣言していると同じことなのだよ、と。
まずは運転免許を返上しなさい。周りの人間が迷惑だから。第一危ないでしょ。
《END》
(初出1999.08 メールマガジン『脱オカルト通信』その後加筆してHP『THE DAYS IN THE LIFE』に再掲 その後加筆訂正してHP『ANOTHER DAYS IN THE LIFE』に再再掲 2004.11ブログ『人生の一日』に『オカルトNO宣言』と改題して掲載)
再掲に当ってはまだ何名かの承諾は得ていません。必要ならば訂正削除いたしますのでご連絡をお待ちしております。
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